<概要>
慶長19年(1614年)10月5日、幕府から国外追放処分とされたイエズス会宣教師と日本人信者の合わせて115人を乗せた船が、長崎の港から広州のポルトガル領マカオに向けて出港した。その2,3日後に、キリシタン大名として有名な高山右近(たかやま うこん:63歳)や内藤如安(ないとう じょあん)とその家族らが、同じく長崎からフィリピンのスペイン領マニラに向けて出港した。一昨年、昨年と幕府はキリスト教の禁令を出しており、今回の国外追放処分もその一環として行われた。
<キリシタンを恐れる幕府>
キリスト教が日本に伝わってから、戦国大名たちの経済政策や政治問題と絡みながら日本人の信者は全国に広まり、関が原の戦いの後はおよそ70万人にものぼったと言われている。また、ちょうどこの頃にキリシタンが絡んだ事件なども発生しており、一向一揆に悩まされた経験のある家康はキリスト教徒に対しても同様の危機感を持っていたのかもしれない。幕府はキリスト教を全面的に禁止したが、その一方で豊臣家との軍事衝突を間近に控えていたのである。幕府の禁教令に反対するキリシタンを豊臣家が受け入れれば、多数のキリシタンが大挙して大坂城に集まる可能性も十分考えられることだっただろう。中でも、高山右近はキリシタンからの信望が厚かったため、右近がキリシタンの指揮をとれば、幕府にとって大きな障害になりえたのである。「国外追放」という、かつてない処分が執られたのも、キリシタンが豊臣家に味方することを防ぐという目的がこめられていた。
<その後の高山右近>
マニラに到着した右近らは市民から大歓迎を受けた。「信仰を守って祖国を追放された英雄」としてである。当時フィリピンを植民地としていたスペインの総督も自ら彼らを出迎え、国賓として待遇しようとしたが、右近は「私は神のために命を捧げようとする願いも神によって許されなかった程度の人間でしかない。」と言って辞退したという。その後間もなく熱病にかかり、1615年2月4日にマニラの地で息をひきとった。右近を追悼するミサが、死後9日間続いたと言われている。
<参考>
・日本全史(講談社)
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
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