江戸城無血開城

<概要>

1868年(慶応4年)4月11日。3月14日に行われた幕府全権陸軍総裁:勝安芳(海舟)(かつ やすよし(かいしゅう:46歳)と、新政府軍参謀・西郷隆盛(42歳)の間で行われた和平交渉の結果、江戸城は開城され、新政府軍に明け渡された。1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川家の運命はもはや風前の灯火であった。徳川慶喜(32歳)は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示していたが、これに納得しない旧幕府勢力の一部は江戸城に立て籠もり、最後の決戦に臨む覚悟でいた。新政府軍による江戸城総攻撃は3月15日と予定されていたが、勝の「公のために」という必死の説得に西郷も応じ、江戸が戦火に巻き込まれることは免れた。

<その後の展開>

幕府の根拠地であった江戸城も新政府軍の手に入ったのだが、これを不服とする幕臣の一部は彰義隊しょうぎたい)を結成し、上野の寛永寺に立て籠もり抵抗を続けた。また、会津藩を保護しようとする東北諸藩も奥羽越列藩同盟おううえつれっぱんどうめい)を結成し、新政府軍と対立する姿勢をとったため、戊辰戦争は継続されることになった。
一方、2月12日から上野の寛永寺に謹慎していた徳川慶喜は、水戸に移り、15日から水戸藩校の弘道館にて謹慎生活を始めた。謹慎生活を続けていた慶喜は月代(さかやき)も髭も伸び放題という姿で、駕籠で出発した。
徳川家は3月29日に御三卿田安家の亀之助(6歳:のちの徳川家達とくがわ いえさと))が家督を継いでいた。5月、徳川家は一大名の格に落とされて駿河・遠江・三河に70万石を与えられ、慶喜と亀之助は駿府に移った。江戸にいた御家人、旗本もこれについていった。こうして、徳川家は存続されることになった。

二重橋
現在の江戸城二重橋。(2003年12月11日撮影)

勝と西郷

江戸城明け渡しに関わった中心人物は勝海舟と西郷隆盛だが、この二人はこの時が初対面ではなく、以前に面識があった。元治元年(1864年)、7月の禁門の変から間もない9月のことである。幕府の今後の方針を聞くために、西郷が訪れたのが勝だった。当時の勝は軍艦奉行という役職に就いていた。軍艦奉行とはその名の通り、幕府海軍の近代化を進める役職である。この時、勝は

「今の幕府は私利私欲に走る役人が威張りかえっている有様。政権を担う力はもはや幕府にはない。今の西洋列強に対抗するには諸藩が対等に話し合い協力する必要がある。挙国一致して臨めば日本の恥にならないように外国と交渉できる。」

という内容のことを言って西郷を驚かせたという。高い役職に就いている幕臣が、現在の幕府を否定しているのだから、驚くのも当然のことだろう。西郷は大久保利通への手紙(元治元年9月16日付け)で「実に驚き入り候人物」「(勝に)ひどくほれ申し候」という言葉で勝を褒めている。また、この手紙の中で西郷は、共和制のためには幕府と断固対決することも辞さないという考えを示している。

勝・西郷会談までの旧幕府と新政府の動き

1月23日。勝は大阪から逃げ帰ってきた徳川慶喜と直談判に臨んだ。勝は
「幕府の海軍力は新政府軍を上回っているから、海軍力を活かせば勝つ事もできます。しかし、内戦の拡大は民衆を苦しめ、列強の侵入を招くことになるでしょう。」
と述べ、慶喜にはひたすら恭順の意を示すことを勧めた。慶喜もこれを容れ、2月12日に上野の寛永寺に謹慎することになったのである。また、その一方で勝は新政府に対して書状を送り、事態の平和的解決を訴えた。
しかし、西郷隆盛はじめ新政府軍の高官達は、恭順は徳川の嘘、として相手にせず、2月15日には約1万の兵を率いて京都を出発。江戸に向かうのであった。江戸は大混乱に陥り、家財を整理して江戸を離れる者が続々と現れ、城中では徹底抗戦を主張する声が高まった。その中で、勝は徹底して恭順するように説得したが聞き入れられず、そればかりか勝を暗殺しようとする者まで現れた。
3月9日
勝は西郷のもとへ使者を派遣し、幕府の恭順姿勢と平和的解決を願う書状を届けさせた。これに対し、西郷が提示した条件は以下の通りである。
一、慶喜は備前藩お預け
一、江戸城明け渡し
一、武器・軍艦の没収
一、関係者の厳重処罰
返事を見た勝は落胆した。いきり立つ徹底抗戦派がこのような条件を呑む可能性は到底考えられなかった。
3月11日
新政府軍は多摩川を越え、ついに江戸城に迫った。新政府軍による江戸城総攻撃は15日という噂が流れた。勝は、江戸城総攻撃が始まった場合は江戸に火を放つ作戦を準備する一方で、漁師たちから漁船を手配し、逃げ遅れた人々を救出する準備を整えた。総攻撃予定日前日の14日。江戸城に徳川方の武士、数千人が集結し、旧幕府軍の緊張は最大に達した。一方、勝は最後の望みを託して、江戸は高輪(たかなわ)の橋本屋で西郷との談判に臨んだ。

勝と西郷の談判の流れ

口火を切ったのは勝だった。

勝「慶喜様ご恭順ということは既にご承知になっていると思う。我々もどこまでも恭順ということでやっておる。ゆえに明日の江戸城総攻撃はとにかく、見合わせて欲しい。」
西郷「ならば江戸城をすぐに渡されるか。」

しばらくの沈黙の後、勝ははっきりと答えた。

勝「城はお渡し申そう。」
西郷「武器弾薬は如何。」
勝「お渡し申そう。」

しかし、勝は徹底抗戦派が存在する実情を話して、武器引渡しについては猶予を求めた。今度は西郷が沈黙した。これは引き伸ばし策なのかもしれない。しかし、西郷は勝を信じた。

西郷「わかりもうした。明日の江戸総攻撃は中止する。」

(史談会速記録(←明治維新の証言集)より)

イギリス公使・パークスの見解

江戸城総攻撃を間近に迎えた西郷は、イギリス公使のパークス(41歳)に、総攻撃による負傷者を横浜の病院で治療してほしいと使者を派遣して頼んだ。イギリスは幕府ではなく薩摩・長州の新政府軍を支援していたため、当然引き受けてくれると見込んでいたのだろう。しかし、パークスの返答は意外なものだった。
「徳川慶喜は恭順の意を示しているのではないですか?恭順する者を攻撃するのは国際法に反する行為です。」
新しい国を造ろうとしている新政府にとって、国際的な批難を浴びるのは避けたいことだっただろう。
(出典:「史談会速記録」西郷の部下、渡辺清の証言)
ところで、江戸城総攻撃について考えてみよう。確かに、慶喜本人は寛永寺に謹慎しているが、一部の幕臣は武装して抗戦の姿勢を崩していない。仮に、幕府全体が恭順の意を示し、武装解除も承諾しているにも関わらず、新政府軍が攻撃を加えたとすれば、パークスが言うように国際法に違反することは明白だろう。しかし、この場合は徹底抗戦の姿勢をとる武装集団が籠城しているのである。新政府軍による江戸城攻撃は、本当に国際法に反するものだったのだろうか?戊辰戦争時、列強諸国は局外中立を宣言しており、特に日本市場で大きな利益をあげているイギリスにとっては、内戦の拡大は好ましくないことだっただろう。こういう事情が、パークスの返答の裏にあると思われる。
いずれにせよ、イギリスが江戸城総攻撃を支持しなかったことが、無血開城に一役買ったことは間違いないだろう。

<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・NHK「その時歴史が動いた 第158回 勝海舟 江戸城無血開城はなぜ実現したか」
・日本全史(講談社)

幕末年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る