蝦夷の乱

 鎌倉時代、陸奥の国は北条得宗家の経済的な基盤として重要な役割を果たしていたそうです。北条得宗家は、安東氏を蝦夷管領に任命して陸奥を経営していましたが、安東季長あんどう すえなが)と安東宗季あんどう むねすえ)の兄弟の間で家督争いが生じました。この争いに絡んで、出羽の蝦夷衆が武装蜂起するなど、安東家の家督争いは一国の内乱のような様相を呈してきました。このような争いを裁判するのは、鎌倉幕府の役割です。季長と宗季の兄弟は鎌倉に赴いて裁判を受けました。しかし、当時の幕府では内管領の長崎高資ながさき たかすけ)が権力を振るっていました。高資は、季長、宗季の両人から賄賂を受け取り、それぞれに都合のいい裁決を与えて片付けたために、問題はますます紛糾してしまいます。さらに現地では、季長陣営も宗季陣営も、蝦夷衆を巻き込み、津軽半島東岸に城郭を築いて武力衝突に及ぶ、という事態に発展してしまいます。1322年(元亨2年)春、幕府はついに鎮定軍を派遣することを決定。武力で鎮圧する手段に出ました。
 この戦乱には蝦夷衆はじめ、幕府に反抗的な悪党も加わったために泥沼化し、数年に及びます。1325年(正中2年)6月6日、幕府は安東季長を罷免し、代わって安東宗季を蝦夷代官に任命することで解決を図りますが、これで季長が納得するわけがなく、戦乱は続きました。1326年(嘉暦元年)3月23日、幕府は陸奥鎮定のために工藤佑貞くどう すけさだ)を派遣。翌1327年(嘉暦2年)に季長は没しますが、その残党が挙兵して抵抗を続けたために、6月14日、幕府は蝦夷征討使として宇都宮高貞うつのみや たかさだ)、小田高知おだ たかとも)を追加派遣し、翌1328年(嘉暦3年)10月、やっとのことで一応の平安を得ることができました。
 蝦夷の乱は、後醍醐天皇による倒幕運動など、中央の動きに隠れがちになっている事件ですが、紛争の長期化は、幕府威信の低下、戦費増大による経済的負担などを招き、北条得宗家による支配体制の基盤を揺るがすものであった、と考えられています。

<参考書>
・日本全史(講談社)

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