万延元年(1860年)閏3月に、幕府が出した法令。内容は、生糸・雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服の5品に限り、いったん江戸に送って需要を満たした後、横浜に出荷するように命じているもの。
1859年に横浜・長崎・箱館の3港で貿易が始まると、多量の金が流出するとともに、生糸をはじめ製品の原材料が輸出されていった。貿易商人、在郷商人らは産地で物資を買い集め、直接横浜などの開港地に送って取引をしたため、問屋などが打撃を受けると共に国内で物資が不足し、物価の高騰がはじまった。この法令で幕府は江戸の物資不足・物価高騰を解消しようとしたのである。
五品江戸廻送令は自由貿易を侵害するものだとして欧米列強や在郷商人の反対を受け、ほとんど効果はあがらなかった。
開港当時の1859年と比較すると、幕府が崩壊した1867年には、米の値段は約7倍、生糸は約4倍、蚕卵紙(さんらんし:蚕蛾を紙にのせて、卵を産みつけたもの)はなんと約10倍に跳ね上がっている。
開港された港は横浜・長崎・箱館の3港だが、取引はほとんど横浜で行われた。通商条約では、神奈川港が開港されることになっていたが、神奈川は東海道の宿場で交通が頻繁であったため、幕府の独断で横浜(当時は村)に変更された。
貿易相手国を見てみると
<船舶の国籍別貿易額>
・イギリス:86.0%
・フランス:8.2%
・オランダ:4.2%
・アメリカ:1.5%
・その他:0.1%
(1865年 総額3038万ドル)
<貿易業者の国籍別貿易額>
・イギリス:67.8%
・フランス:14.0%
・アメリカ:10.4%
・オランダ:5.1%
・その他:2.7%
(1864〜5年 総額1951万ドル)
となっており、貿易相手はほとんどイギリスであった。当時のイギリスは産業革命で世界に先駆けて近代工業化が進み、「世界の工場」と讃えられていた。一方、日本を実力で開港させたアメリカは国内で南北戦争(1861〜65年)が勃発したために、遅れをとった形になっている。
次は、取引品目について見てみよう。
輸出 |
・生糸:75.8% |
輸入 |
・艦船:26.7% |
1867年 | |||
輸出 |
・生糸:43.7% |
輸入 |
・綿織物:21.4% |
日本の輸出品は生糸を中心に、手工業生産品がほとんどで、輸入は艦船や武器、綿織物・毛織物などの近代工業製品が多数である。これは当時の日本と列強の技術力の差を表しており、日本は列強の製品の市場であった。生糸の大量輸出は、製糸業のマニュファクチュア(工場制手工業)化を進めておおいに発展し、明治維新後も日本の主力製品となっている。一方で、絹織物業は原料不足に悩まされて圧迫され、農村の綿織物業も、安価な輸入品に押されて衰退していった。
通商条約に基づいた貿易により、日本の産業も大きく変化したのである。
1867年に米を輸入しているのは、長州征討時に米不足で多発した打ちこわしを反映していると思われる。
開港以来、日本から多量の金が流出していた。この原因は、日本の金銀比価がほぼ金:銀=1:5であったことに対し、世界の標準が金:銀=1:15と、日本では金の価値が世界標準の3分の1だったためである。外国人は自国で銀を金と交換するよりも、日本で銀を金と交換したほうが3倍も得なので、こぞって日本で金銀交換を行ったのである。幕府はこれまでの天保小判(縦62mm)から万延小判(縦約36mm)へと改鋳して金の質を下げることで対応した。しかし、小判の質が落ちたことによって、国内の物価高騰には拍車がかかることになった。
幕末年表へ戻る