御成敗式目

 1232年(貞永元年)8月10日、鎌倉幕府の執権・北条泰時(50歳)を中心に、評定衆らによって最初の武家の法典・御成敗式目が制定された。この背景には鎌倉幕府が勢力を伸ばし、その支配領域が拡大するとともに、御家人らによる土地に関する紛争が増加していたことがある。これまでは、源頼朝以来の慣習や先例などに基づいて土地紛争を裁いていたが、裁断の不公平を避けるためには、判決の基準となる法律が必要であった。
 御成敗式目は全文51ヶ条から成り、武士にもわかりやすいように平易な言葉で書かれていることが特徴のひとつ。守護・地頭の職務権限を明確にし、御家人の所領に関する条項、財産の分割相続などについて定められている。また、この法律は後の戦国大名の分国法にも強い影響を与え、武家法の基本となった。江戸時代には、寺子屋などで習字の手本の題材になるなど、民間にも普及している。


式目制定の経緯と目的

 北条泰時は名執権として讃えられることが多い。その功績の一つに、御成敗式目の制定が挙げられる。泰時は研究熱心な人物だったようで、1224年の執権就任以来、古代からの法律である律令について日々研究を重ねていたという。こうして、1232年の5月14日から、11名の評定衆と共に(中でも特に法律に詳しい太田康連(39歳)、斎藤長定(34歳)と)、式目の編纂に着手していた。
 式目制定の目的は、公平な裁判の基準を作ることにあったと考えられている。泰時本人が、弟・重時(六波羅探題)に宛てた手紙には
「かねて御成敗の躰をさだめて、人の高下を不論、偏頗(へんぱ)なく裁定せられ候はんために」
(「あらかじめ裁判の基準を定めて、当事者の身分の高い低いに関わりなく、えこひいきなく裁判が行われるように」)

と記されている。そもそも鎌倉幕府において、土地とは鎌倉殿と御家人達を結ぶ大切な絆であった。承久の乱の勝利によって、幕府の支配力が強化された一方で、御家人同士、御家人と荘園領主、御家人と農民の紛争も増加していった。それらの問題を裁くのが幕府の仕事であったが、この裁判がいい加減に行われるようでは、幕府は御家人の信頼を失うことになるだろう。幕府が土地問題について公平な裁断を行うことはたいへん重要なことであった。

武家社会にのみ適用

御成敗式目は武家の最初の法律であったが、その適用範囲は武家社会のみであった。平易な文章で編纂されたのもそのためであった。上記の手紙の中にも、下のように記されている。
「この式目は只かな(仮名)をしれる物(者)の世間におほく候ごとく、あまねく人に心えやすからせんために、武家の人へのはからひのためばかりに候」
(「この式目は平仮名だけを知っている者が世間に多いように、ひろく人々に納得させやすいように、武家の人の便宜のためだけに作ったのである。」)

その上で重視されたのは、武家社会で当然とされている慣例・先例であった。また、新たに悪口の罪や密通の罪も制定されている。

御成敗式目の内容

御成敗式目で定められた事柄の中でも重要なことは、守護・地頭の職務権限についての取り決めである。守護については第三条、地頭については第五条に記載されている。

一(第三条)諸国守護人奉行の事
 右、右大将家の御時定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人(付たり、夜討・強盗・山賊・海賊)等の事なり。而るに近年、代官を郡郷に分ち補し、公事を庄保に充て課し、国司に非ずして国務を妨げ、地頭に非ずして地利を貪る。所行の企て甚だ以つて無道なり。・・(略)・・早く右大将家御時の例に任せて、大番役並びに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止せしむべし。・・(略)

一(第五条)諸国の地頭、年貢所当を抑留せしむる事
 右、年貢を抑留するの由、本所の訴訟あらば、即ち結解を遂げ勘定を請くべし。犯用の条、若し遁るる所無くば、員数に任せてこれを弁償すべし。・・(略)・・なほこの旨に背き難渋せしめば、所職を改易せらるべきなり。

 第三条では、守護の職務は大犯三ヶ条に限ったものであり、その他の事に関与することを禁止している。守護は地頭とは異なり、荘園から経済的収入を得ることはできず、朝廷から派遣される国司の権限を侵すことも禁止されていた。
 第五条では、地頭が年貢を本所(領家・本家)に納めることを規定している。これを守らないと、改易処分となる、という厳しい罰則も付けられた。逆から考えると、守護・地頭の土地支配力は次第に国司や荘園領主の権利を脅かすようになっていた、といえるだろう。
 その他にも、源氏三代将軍や北条政子から与えられた所領は、以前の所有者の訴訟を受け付けないという不易の法、20年以上実質的に土地を支配していた場合はいかなる理由があっても領有を認める知行年紀法が定められた。公家法と異なる点としては、親が子供に譲与した所領を取り戻す権利(悔返し権)が武家では認められたこと、子供のいない女性が養子を迎えて所領を譲与することが武家では認められたこと、などが挙げられる。
 余談になるが、この式目が51ヶ条にまとめられたのは、聖徳太子が定めた十七条憲法の縁起をかついだため、と言われている。17を3倍すると51である。当時、太子を信仰する風潮があったため、それにあやかるために51ヶ条にまとめた、ということだ。

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・日本史史料集(駿台文庫)

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