禁門の変(蛤御門の変)

<概要>

元治元年(1864年)7月19日。京都で勢力の挽回を図る長州藩と、御所を守る幕府軍の間で激しい戦いが繰り広げられた。前年8月18日の政変で京都政界を追放された長州藩であったが、池田屋事件が火に油を注ぐ結果となり、ついに武力行使に至ったのである。兵力では圧倒的に劣っていた長州軍であったが、尊攘派浪士の猛攻は凄まじいものであった。しかし、薩摩藩・会津藩を主力とする大軍の幕府軍には力及ばず、長州藩は敗走した。
この戦いは禁門の変と呼ばれているが、中でも激戦区だったのは西側の蛤御門(はまぐりごもん)であったため、蛤御門の変とも呼ばれている。

戦後の結果

・戦闘は19日の昼過ぎには終了していたが、戦火による火災は21日まで朝まで続いていたという。当時の京都の人口は約50万人ほどで、この戦火の被害は27513戸にも上り、811町が焼失。公家屋敷は18軒、武家屋敷は51軒、土蔵1207棟、橋41、宮門跡3つ、芝居小屋2軒、髪結所132軒、社寺253、番部屋562と、およそ京都市外の3分の2が焼失したといわれている。
・21日、孝明天皇は長州追討令を出した。これを受け、幕府は長州征討軍を派遣。第一次長州征討である。


現在の蛤御門。門扉には銃弾の跡が残っている。
(2004年1月8日撮影)

戦前朝議

戦端が開かれる前日の18日、京都に迫った長州軍への対応を決める朝議が開かれた。
長州軍は朝廷に嘆願書を提出しているが、武装して哀願している以上、強訴と同じであるとして、長州討伐を強硬して主張するのは京都守護職・会津藩主の松平容保(30歳)であった。幕府の実質的な権力者である一橋慶喜(28歳)も同調しているが、日和見を決め込む薩摩藩に同調するようになった。
しかし、朝議は長州藩の撃退で決定した。幕府軍の総指揮官は病に倒れた松平容保に代わって一橋慶喜が務めることになった。彼が軍装を整えて愛馬・飛電にまたがり出陣した時には、中立売御門(なかたちうりごもん)で戦端が開かれていた。

長州軍と幕府軍の戦力比

守る幕府軍の総兵力は約8万。会津、薩摩藩を主力とし、桑名、彦根、越前、淀、大垣など諸藩の連合軍であり、各々の持ち場を守っていた。攻める長州軍は約3000。家老・福原越後(50歳)が率いる長州藩兵800人。同じく家老・益田右衛門介(32歳)が600人を率いた。その他、尊攘派の各地の志士1600人を遊撃隊として、久留米の神官・真木和泉守まき いずみのかみ:52歳)と吉田松陰の弟子で長州の医者の息子の久坂玄瑞くさか げんずい:25歳)、そして長州藩士の来島又兵衛きじま またべえ:49歳)が指揮に当たった。

戦闘経過

数で劣る長州軍であったが、果敢にも3方向から御所を目指して進軍を開始した。南方からは福原越後率いる800人が伏見街道を北上。藤森(ふじのもり)で大垣藩、彦根藩に阻まれて後退。態勢を立て直して今度は竹田街道を北上したが、丹波橋で彦根・会津藩との戦いに敗れて敗走した。
南西の山崎からは真木和泉守、久坂玄瑞らが率いる浪士隊が御所の南の堺町御門を目指して18日の午後8時に進軍を開始。堺町御門はかつて長州藩が警備を受け持っており、8月18日の政変で薩摩藩に取って代わられた因縁の門である。ここを守る桑名・彦根・越前・会津藩と激しい戦いを繰り広げた。久坂玄瑞は乱戦の中を潜り抜けて鷹司邸に入り(鷹司邸は堺町御門の東にあった)、説得を行った。しかし、戦闘は幕府軍が有利になり、真木和泉守は敗走。鷹司の説得に失敗した久坂も火に包まれた邸内で自刃して果てた。
最大の激戦区となったのは、西の蛤御門であった。嵯峨・天竜寺からは来島又兵衛、国司信濃くにし しなの:23歳)率いる浪士隊が19日午前2時に出発した。彼らの軍は蛤御門を守る会津藩と激戦を繰り広げた。長州藩にとって、会津藩は8月18日の政変の首謀者の一人であり、池田屋事件で多くの同志の命を奪った新選組を抱えている仇敵であった。浪士隊の戦意と進撃は激しく、会津藩の守りを突破して、一時は御所内に進入したほどである。しかし、西郷隆盛率いる薩摩藩が応援に駆けつけたために戦局は逆転。指揮官の来島又兵衛は戦死し、浪士隊は敗れて敗走した。
結果は長州藩の完全敗北であった。益田右衛門介が600人を率いて淀川から山崎の天王山に進み後詰として控えていたが、友軍の敗走を食い止めることはできず総崩れとなった。真木和泉守ら17人は天王山にて自害して果てた。
この戦いの戦死者は以下の通り。

長州軍
幕府軍
長州軍・・265名 会津藩・・60名
越前藩・・15名
彦根藩・・9名
薩摩藩・・8名
桑名藩・・3名
淀藩・・・2名
合計・・・97名

蛤御門の名前の由来

「蛤御門」の名前の由来は、天明8年(1788年)の大火であった。普段の蛤御門は閉じられており、滅多に開くことがなかったのだが、天明の大火で開いたことから「焼けて口開く蛤」ということで、蛤御門の名が付いたという。

<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)
・日本全史(講談社)

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