1867年(慶応3年)4月、坂本竜馬(33歳)らが結成した亀山社中は土佐藩の組下に入り、名を「海援隊」と改めた。海援隊の隊長となった坂本はこの年の6月、長崎から大坂に向かう船の上で、土佐藩の参政・後藤象二郎(ごとう しょうじろう:30歳)に大政奉還を旨とした政治構想を示した。これを8ヶ条にまとめたものが「船中八策」(せんちゅうはっさく)と呼ばれている。
後藤は坂本の構想を改変したものを主君の山内容堂(41歳)に提案した。容堂はこれを容れて幕府に大政奉還の建白書を提出し、10月には15代将軍・徳川慶喜(31歳)が大政奉還を発表することになったのである。そういう意味では、大政奉還の立役者は坂本竜馬だったといえるだろう。
船中八策の内容は、海援隊員の長岡謙吉(34歳)が8ヶ条にまとめて記録した。坂本の構想が成文化されたのは、彼らが京都に到着してからのことだったという。その内容は、幕政返上・議会開設・官制改革・外交刷新・法典制定・海軍拡張・親兵設置・幣制整備であった。文章については以下の通り。
第一
天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
第二
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
第三
有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
第四
外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
第五
古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
第六
海軍宜シク拡張スベキ事
第七
御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事
第八
金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
この年の正月、坂本と後藤は長崎の料亭で会見した。二人とも土佐藩出身であるが、郷士である坂本と上士である後藤では、藩内での地位はまるで別人種であった。それどころか、両者は敵対関係にあったようである。後藤の姉は土佐藩参政の吉田東洋(よしだ とうよう)に嫁いでおり、後藤自身も吉田の教育を受けたことがあった。つまり、吉田は後藤の姉婿であると同時に師匠でもあった。その吉田は、文久2年(1862年)に尊皇攘夷集団の土佐勤王党によって暗殺されたのだが、その土佐勤王党の首領・武市半兵太(たけち はんぺいた)は坂本の友だったのである。後藤は山内容堂の指示を受けて、武市を切腹に追い込み、土佐勤王党の壊滅に尽力した。つまり、武市を介した敵対関係にあったのである。
二人の関係はこのように穏やかならぬものであったが、長崎での会見後、坂本は同志達に下のようなことを言ったという。
後藤と自分は知っての通りの仇敵の間柄であるが、彼は過去を一言も語らなかった。人物でなければできない心胸である。それに、話題を常に己に引きつけておいて、他人に引かれない。まれに見る才物だ。
こうして両者は手を結び、薩長連合による討幕軍に土佐藩も加わることになったのである。
坂本はこの年の11月に暗殺者の手によって斃れるが、後藤は明治政府の高官として活躍した。しかし、どういうわけか彼は坂本についてはほとんど何も語り残していないという。