<概要>
貞享元年(1684年)8月28日、江戸城本丸の御用部屋(老中達の部屋)付近の廊下で、大老の堀田正俊(ほった まさとし)(51)が若年寄の稲葉正休(いなば まさやす)(45)に殺害されるという事件が発生した。稲葉の脇差は堀田の脇の下から左の肩先まで貫通していたという。この日は祝日ということで、御用部屋には老中・若年寄ら幕閣が集まっていたため、犯人の稲葉はたちまち取り囲まれ、同僚達に斬り殺されるという、異例な結末となった。
このような刃傷・殺害事件で加害者が捕らえられずにその場で斬殺されるという事例は、他にはなかなか見当たらない。そのため、稲葉がどういう動機で犯行に及んだのかは謎となってしまった。水戸光圀(みと みつくに)はこの点で老中達を問責したらしいが、満足な解答は得られず、事件の真相は闇に葬られてしまった。稲葉の懐には
「累代の御高恩に応え、筑前守(堀田正俊)を討ち果たす・・・」
という遺書が発見された。
<その後の展開>
幕府政治に大きな影響力を持っていた大老の堀田正俊が殺害されたことにより、以後は将軍・徳川綱吉(39)と側用人らが政治を動かすことになる。御用部屋は将軍の御座所がある中奥から表へ移され、その間は側用人に取り次ぎさせるという新たな政務室の位置関係が築かれた。悪名高い「生類憐みの令」が出るのも、権勢を誇った側用人・柳澤吉保(やなぎさわ よしやす)が表舞台に立つのもこの事件の後である。
もうちょっと詳しく
稲葉正休が堀田正俊を殺害した理由は、稲葉がその場で斬殺されたことで迷宮入りとなってしまった。
堀田は綱吉を五代将軍に推して、将軍就任に尽力した功績者であるが、その後は綱吉と肌が合わなくなったという。堀田は大老という職分上、幕府では将軍に次ぐ程の権力を持っており、これまでの政策も彼が推し進めてきた部分が大きい。また、将軍の後見人的な立場でもあったため、その発言力はかなりのものであったと推測される。そのため、稲葉は将軍をないがしろにする奸臣を除いた功績者として扱われることもある。
しかし、後に活躍する新井白石(あらい はくせき)は堀田を「尋常人ではなく善言の多い人だ」と評し、今回の事件についても、以下のようなことを記している。
京阪地方の水害の川普請の見積もりを命じられた稲葉は、巨額の見積もりを報告したが、専門の技術者が見積もると、それよりかなり小額で済んでしまった。稲葉はこれを将軍に報告されるのを恐れ、事件前夜に堀田を訪ねて技術者の見積もりを将軍に報告しないようにと頼んだが、堀田は「御身や私は専門外の素人だから、間違えてもお咎めはないだろう」とこれを拒否。怨みを抱いた稲葉は翌日、刃傷に及んだ、というのである。これは白石の見解だが、事件前夜に稲葉が堀田を訪ねて酒を酌み交わしたことは事実らしい。
黒幕は綱吉?
この事件の黒幕、つまり首謀者は綱吉だったのではないか?という可能性が指摘されている。加害者である稲葉が、捕らえられて尋問を受けることもなく、同僚達に斬殺されたという異常な結末は、何らかの意志が働いていた結果と見るのが妥当なところだろう。また、稲葉の遺書に記されている「累代の御高恩」という言葉は将軍家に対する恩だと考えれば、そこに時の将軍である綱吉の影響があったことは間違いないだろう。
また、『御当代記』によると、事件の翌年(貞享2年)に綱吉が上野寛永寺に参詣したとき、堀田を葬った寺の方角を聞き、二重に屏風を立てて遮らせたという。そのため、寺では堀田の棺を七尺(約2.1m)深く埋め直したと記述されているそうだ。
ただしこれらは推論であり、綱吉が黒幕であると決定できるほどの証拠ではない。
最後に、堀田にまつわる話を二つ紹介。
堀田の友人松浦鎮信(まつら しげのぶ)が堀田に
「寛容にされぬと身が危うい」と忠告したところ、
「自分は君国のためばかり思い我が身をかえりみる暇がない」と、涙を流して答えた。松浦も
「貴殿のような人を
また、八代将軍・徳川吉宗の頃の儒学者・室鳩巣(むろ きゅうそう)は
「綱吉の政治は、正俊の在世中は宜しきを得たが、その死と共に乱れた」と、評している。