1858年(安政5年)3月20日。老中首座の堀田正睦(49歳)は日米修好通商条約調印の勅許を得るために京都に上洛していたが、この日朝廷から、御三家以下諸大名の意見を聞いてから再願せよ、と指示され、事実上失敗に終わった。
日米修好通商条約については、アメリカ総領事・ハリスと幕府側全権の下田奉行・井上清直(いのうえ きよなお)と目付・岩瀬忠震(いわせ ただなり)の間で正月にまとまっていた。堀田は御三家以下、諸大名に条約調印を認めさせようとしたが、尾張藩主の徳川慶勝(とくがわ よしかつ:35歳)が朝廷の許可(勅許)を得るべきだと主張したため、1月8日に京都へ向けて出発した。しかし、外国人が日本に入ることを極端に嫌った孝明天皇(28歳)の対応は厳しく、2月23日に御三家以下、諸大名の意見をよく聞いてから改めて願い出るように、との勅諚(ちょくじょう)が出された。
しかし堀田も粘り強く交渉を続け、関白の九条尚忠(くじょう ひさただ:61歳)らを動かして、外交は幕府に一任する旨を上奏させ、3月11日には孝明天皇もこれを認めた。一旦は堀田の交渉は成功したかのように見えた。
しかし、岩倉具視や中山忠能(なかやま ただやす)ら88人の公卿が反対し、この日の指示に至った。堀田は勅許を得ることに失敗したのである。
失敗したとはいえ、一度は幕府に外交権を委ねることを認めさせた堀田の交渉は、金の力によるものであったらしい。昔から朝廷は慢性的に財政に窮乏しており、朝廷工作には金が必需品であるかのようであった。孝明天皇はこれを嫌い、下のような直筆の手紙を九条関白に出している。
備中守(堀田正睦)の今回の上京における献上金のことである。前も言ったように、献上金がいかに大金であってもそれに眼がくらんでは天下の災害の基であると考える。人の欲とはとにかく黄白(こうはく:金のこと)に惑うものである。迷いも事によってはその場限りですむが、今回の場合、心に迷いがあっては騒動になるであろう。
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