<事件の概要>
明治24年(1891年)5月11日、大津遊覧中のロシア皇太子・ニコライ(24)が、警備にあたっていた津田三蔵(38)巡査に突然サーベルで斬りかかられ負傷した。幸い、ニコライは負傷したのみで命に別状はなかったが、この事件は政府はじめ、日本中を震撼させた。ロシアの報復をおそれたのである。
政府はロシアへの配慮から、犯人である津田に対して大逆罪(皇族に危害を加えた者への罪則)を適用し死刑を求刑したが、時の大審院(現在の最高裁判所に相当)院長・児島惟謙{こじま いけん(これかた)}(55)は「刑法では、ロシア皇太子は『皇族』には含まれない」として、普通謀殺罪の未遂事件として無期徒刑の判決を下した。
<事件その後>
この事件は「司法権の独立を守った重要な判例」という形で、現代でも法学の世界では重要な事件となっている。日本が不平等条約の一つ、治外法権の撤廃に成功したのはこの事件の3年後のことであった。この事件の判決は欧米列強にも評価されたのかもしれない。
なお、無期徒刑となった津田三蔵は、のちに北海道の刑務所で肺炎にかかって病死した。そして、負傷したニコライは、ロマノフ朝最後の皇帝・ニコライ2世として即位。このニコライ2世が、日露戦争中のロシア皇帝であった。
もうちょっと詳しく
この事件の重要な点は、負傷したのがロシア皇太子だったことである。帝国主義の時代の中、日本人がロシア皇太子を負傷させたことは、ロシアが日本に対して宣戦布告するのに十分な理由となりえただろう。これは後の外国の話だが、第一次世界大戦のきっかけも、オーストリア皇太子がサラエボでセルビアの青年に銃殺されたことである。その後、オーストリアはセルビアに宣戦を布告し第一次大戦の端緒となった。
もしも、ロシアが皇太子が傷害事件に遭ったことを理由に日本に宣戦を布告したら、どうなったか?この時の日本がロシアと戦っても到底勝ち目はなかっただろう。政府もロシア大使館などに謝罪に赴いたりと、ロシアの怒りを爆発させないように必死に務めている。犯人に極刑を求めることも、ロシアへの恐れがあったからに違いない。ちなみに、当時の刑法は1880年に公布されたもので、具体的には下の通り。
政府が求めたのは 第116条 天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス |
津田三蔵は何故凶行に及んだのか?
原因はいろいろ考えられるが、大審院の判決によると、決して計画的なものではなく、突発的なものだった模様。
彼は西南戦争に政府軍の一兵士として従軍し勲章をもらっている。最近見つかった彼自身の直筆の書状などから、西南戦争の体験は彼の心の中で重要な位置を占めていた、と考えられている。事件当日、
@最初の警備地、三井寺観音堂には西南戦争の記念碑が建っていたが、やって来たロシアの随行官はそれに敬意を払わなかった。
Aニコライを歓迎する花火が遠くで上がっていた。津田は、その音からかつて自分が参戦した砲声轟く西南戦争の記憶がよみがえった
などの理由で、殺意を抱いたと考えられている。
おまけの話
1.ニコライを助けた人力車夫
突如、犯行に及んだ津田からニコライを守ったのは二名の人力車夫であった。この功で、二人は日露両政府から勲章と年金をもらっている。
2.烈女・畠山勇子
今回の事件とは一切関わりがないと思われる一人の日本人女性が、ロシアに謝罪の意を書き表した遺書を残し、京都府庁の前で喉を掻き切って自害するという事件がこの年の5月20日に発生した。彼女は当時27歳であった。
彼女は千葉県に生まれ、父や叔父の影響で政治・歴史におおいに興味を持っていたらしい。早くに父を亡くし、結婚するがうまくいかずに離婚。その後は叔父の世話で東京で針子の仕事をしていたようだ。事件を知った彼女は、心配のあまり叔父に何度も相談したが叔父は「女一人が心配したところで何にもならん」という内容のことを言って、彼女を諌めた。しかし、彼女は日本の行く末が心配でたまらなかったのだろう。遺書をしたため、質屋で旅費を作って京都に向かい、寺巡りの後、京都府庁前で自害を遂げたのであった。彼女の墓は京都の末慶寺にある。