寿永3年正月に源義仲を破って京都に入った源氏軍の手により、後白河法皇は保護されました。法皇は、平氏が奉じる安徳天皇を廃し、新たに後鳥羽天皇を即位させようとしましたが、天皇即位に必要な三種の神器は平氏の手中にあったわけです。なんとしてでも、三種の神器は取り返さなければなりません。これを受けて、源範頼ら源氏軍は、三種の神器奪還のために駒を進めることになりました。
この頃、平氏は西国で兵力を建て直していました。平氏の協力者としては、長門目代・紀光季(きのみつすえ)。彼の援助を受けて長門の彦島を拠点としています。また、讃岐の豪族・田口成能(たぐち しげよし)(「成能」の名は「重能」とも。)は平氏を迎え入れ、屋島が本拠地とされています。さらに山陽道に進出し、京都奪還を図って播磨の一の谷まで進出していたのが平氏の状況でした。一の谷は北は山、南が瀬戸内海で東西に細長い地形になっており、狭い東西の入口を固めれば、用意には破れない地形となっていました。平氏はこの地形を活用し、東西の入口に陣を築いて強固に守っていたそうです。さて、攻める源氏の動き。総大将・源範頼率いる本隊は山陽道を進んで東から攻め、源義経(26歳)率いる別働隊は丹波路を通って一の谷の北を迂回し、西から攻める戦術をとりました。東西から挟み撃ちにするわけです。義経の別働隊の兵力については、一万余騎とも伝えられているが、明確にはわかっていないようです。平氏の軍勢は、一の谷だけに固まっていたわけではありませんでした。一の谷の北方、三草山には平資盛らの軍が陣を張っていましたが、義経はこれに夜襲をかけて一蹴してしまいます。そして、土肥実平(どひ さねひら)らに軍勢の大半を預けて一の谷の西に向かわせ、自らはわずかな郎党と畠山重忠(はたけやま しげただ)をはじめとした坂東武者の精鋭を率いて一の谷北の山上に向かいました。その数は70騎ほどと言われているそうです。これが、源氏軍の大きな勝因となります。
寿永3年(1184年)2月7日。源氏はほぼ東西同時に平氏の陣に攻撃を仕掛けましたが、強固な守りを突破することができず、平氏優勢の状態が続きました。このさなか、義経率いる少数精鋭部隊は、鵯越(ひよどりごえ)付近から崖を馬で駆け下りて、平氏の陣の中央に切り込みました。元々手薄だった(と思われる)中央に、突如源氏軍が現れたことにより平氏軍は大混乱状態に陥り、安徳天皇と三種の神器、女たちを船で逃がすのが精一杯であったそうです。優勢に戦いを進めていた東西の守りも、中軍の崩れの影響を受けて崩れはじめ、ついに平氏は全面的な敗走状態に陥ってしまいます。こうして、一の谷の戦いは、源義経の奇襲により、源氏の大勝利に終わったのです。
一の谷の山より。現在でも海のすぐそばは急勾配の山になっている。 |
源氏軍は三種の神器奪回の目的は果たせなかったものの、平重衡をはじめ、平家一門の有力人物を捕縛・戦死させ、軍事的には大戦果を挙げることに成功しました。特に、勝因を作った義経の奇襲は高く評価され、義経の名は都で評判になったそうです。
一の谷を失った平家惣領の平宗盛(たいらのむねもり)は、三種の神器と安徳天皇を連れて屋島に逃れ、弟の平知盛(たいらのとももり)は西海方面の守りのために長門彦島に移動しました。
一方の源氏は、屋島に攻め込む水軍の準備を必要としたため、当面は占領地の行政・治安維持にあたることになります。比企朝宗(ひき ともむね)は北陸を、梶原景時(かじわら かげとき)、土肥実平は山陽道5カ国(播磨・美作・備前・備中・備後)を、大内惟義(おおうち これよし)は伊賀を、そして源義経は畿内を担当したそうです。この間に、義経は後白河法皇から検非違使、左衛門尉に任命されています。これが、後に大きな問題を引き起こすことになるわけですね。
一の谷の戦いからおよそ半年が過ぎた8月。源頼朝は、源範頼を総大将として、九州を勢力下に置くために山陽道を西進させました。この西進軍は、平氏に味方する在地武士の反抗や平知盛による妨害作戦、さらには兵糧不足、長期遠征の疲れなどで、たいへんな苦戦を続けることになります。
捕縛・戦死した平家一門
平重衡 |
30歳 |
清盛五男。惣領・宗盛の弟。須磨付近で捕らえられる。 |
平忠度 |
41歳 |
清盛の弟。「旅宿花」の名歌を箙に結んで戦死。 |
平敦盛 |
16歳 |
清盛の甥。経盛の子。熊谷直実に討たれる。 |
平通盛 |
? |
清盛の甥。教盛の子。戦死 |
平教経 |
25歳 |
清盛の甥。教盛の子。戦死(?) |
<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・別冊歴史読本「源氏対平氏」(新人物往来社)
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