宝永6年(1709年)1月10日。五代将軍・徳川綱吉(64)は流行病の麻疹にかかり、一時は回復したものの、容態が悪化してそのまま世を去った。綱吉に嫡男はいなかったが、宝永元年に世継ぎを甥の家宣と決めていた。
家宣が将軍となったのは、やや間隔が空いて5月1日。
六代将軍となった家宣は朱子学者の新井白石(53)を取立て、間部詮房(まなべあきふさ:43歳)を側用人とし、まずは生類憐みの令を撤廃した。
一方、これまで権勢をふるった柳沢吉保(52)6月3日に辞職。政権担当者の顔ぶれは完全に入れ替わった。
新井白石は側用人の間部詮房の協力を得て、儒教理念に基づいた文治政治を推進していった。後年、白石の治世は「正徳の治」と讃えられることになる。
六代将軍となった家宣。その生い立ちは、波乱に満ちたものであった。
家宣の母は、父・綱重の伯母・天樹院の侍女・松坂の局の召使・おほらである。綱吉同様、母の身分は低かった。「虎松」という幼名をもらったが、この時綱重は正室となる二条光平の娘との婚儀を間近に控えていたため、国家老の新見正信に預けられた。
ところが、正室となった姫君は虎松が10歳の時に子がないまま他界したため、父に引き取られて世継ぎとなり、17歳の時に父が世を去ったため、家督を継いでいる。
生誕当初は厄介者扱いされた家宣だが、運命は巡り巡って彼を征夷大将軍に導いたのである。
新井白石は武士というよりは学者であった。儒学の流れを汲む朱子学者で、学派は藤原惺窩(ふじわらのせいか)を祖とする京学派である。ちなみに、白石の師・木下順庵(きのした じゅんあん)は、綱吉の侍講であった。
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