池田屋事件

<概要>

1864年(元治元年)6月5日。京都は三条小橋の西にある旅籠・池田屋に集結していた長州系尊攘派の約20名が新選組に襲撃され、斬殺・捕縛されるという事件が起こった。襲われた尊攘派は、前年8月18日の政変で京都を追放された長州藩の勢力を回復するために、京都に火を放ち大混乱に陥れ、それに紛れて公武合体派の公家や京都守護職の松平容保(30歳)を殺害し、天皇を長州藩に連れて行く、という「天皇動座」計画を立てていたという。この情報を聞きつけた新選組が捜査にあたっていた。池田屋で斬り合いが行われている最中に会津藩や桑名藩の兵も池田屋を包囲し、逃げようとした尊攘派はほとんどが捕らえられた。
この事件で、長州藩の主だった尊攘派の多くが命を落とした。新選組側にも死傷者が出たが、彼らは活躍を賞されて報奨金を受け取った。

<その後の展開>

翌6日、この事件に対して朝廷から会津藩への感謝状が届けられ、新選組は名前を挙げられて功を讃えられた。
しかし、長州藩は長州系浪士らの怒りの火に油を注ぐことになった。長州藩は藩兵を率いて京都に上洛し、実力で薩摩・会津藩を退けようとした。禁門の変(蛤御門の変)きんもんのへん(はまぐりごもんのへん))である。


事件のきっかけ

新選組がこの「天皇動座」計画を聞き出したのは、四条木屋町で薪炭商を営んでいた枡屋喜右衛門ますや きえもん)を逮捕・拷問して入手した。枡屋の本名は古高俊太郎ふるたか しゅんたろう)といい、近江の郷士であった。古高は長州系浪士と通じて情報提供などを行っていたという。
古高が捕まったことを知った浪士らは池田屋に集まり、古高の奪回と新選組攻撃について会議を行っていた。この会議には、吉田松陰門下の四天王と讃えられた俊才・吉田稔麿よしだ としまろ)や、肥後出身で8月18日の政変までは3000人の親兵の総督を務めていた宮部鼎蔵みやべ ていぞう)、尊攘派の人望が厚い土佐藩の北添佶摩きたぞえ きつま)など、錚々たる顔ぶれであった。

新選組の奮戦

池田屋事件は、新選組が大活躍した事件として有名である。当時の新選組は34名で捜査にあたっており、八坂神社に集合した後、局長の近藤勇こんどう いさみ)が10名を率い、副長の土方歳三ひじかた としぞう)が24名を率いていた。永倉新八ながくら しんぱち)の「浪士文久報国記事」によると、最初に池田屋に踏み込んだのは近藤ら10名で、このうち屋内に切り込んだのは近藤勇、沖田総司おきた そうじ)、永倉新八藤堂平助とうどう へいすけ)のわずか4名だった(残り6名は出入り口の押さえに回った)。4人ともかなりの実力者であるが、相手は約20名ほどである。屋内は激闘になり、戦闘時間は1時間とも2時間とも言われている。途中から、騒ぎを聞きつけた土方の部隊が加勢に現れ、闘いは新選組の勝利で終わった。
この闘いで隊士1名は戦死、2名は負傷が原因で間もなく死亡。沖田総司は「病気にてひきとる」とあり、途中で戦線を離脱(肺結核の発作を起こした?)、藤堂平助が額を斬られて負傷したのをはじめ、負傷者の数は多かったようだ。

桂小五郎は逃げた?

長州系尊攘派の会合に、長州藩士の桂小五郎かつら こごろう:32歳)が参加していた(する予定だった)が、彼は無事だった。後に
「会合に出席するために池田屋に行ったところ、他の者がまだ来ていなかったため、対馬藩邸で待っていたら事件が起こった。」
と彼は言っている。しかしその一方で、本当は彼は新選組に襲われると真っ先に逃亡して対馬藩邸に逃げ込んだのだ、という説を掲げている人もいる。

<参考書>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・幕末維新 新撰組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)
・その時歴史が動いた 第162回 新選組 最後のサムライたち 立志編 剣に生きる(NHK)

史跡探検記「池田屋跡」へ
幕末年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る