1221年(承久3年)5月15日。
以前から討幕を画策していた後鳥羽上皇(42歳)が、この日ついに鎌倉幕府打倒の院宣を全国に発令した。上皇は「西面の武士」を置いて武力を強化し、幕府打倒の機会をうかがっていたという。一方鎌倉では、源氏の正統将軍が3代で絶えてしまい、北条氏とその他の有力御家人などの勢力争いが激しくなっていた。上皇の挙兵は、この隙を突いたものと思われる。
しかし、幕府の結束力は強く、北条政子(65歳)の演説により、御家人達は続々と幕府側で参戦し、その数は19万騎にも及んだという。結局、上皇に組する武士は2万数千ほどであり、幕府の大軍の前になすすべもなく潰走し、挙兵から一ヵ月後の6月15日には、幕府軍が京都を占領した。
この乱の結果、後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇に味方した武士や公家は所領没収や斬罪・流罪など厳しく処分された。。また、朝廷監視のために、幕府軍の大将である北条泰時(ほうじょう やすとき:39歳)と北条時房(ほうじょう ときふさ:47歳)は京都に残留することになり、のちに六波羅探題と呼ばれる組織になる。
鎌倉幕府は崩壊の危機を乗り越え、逆にその力を全国に及ぼすことになった。
後鳥羽上皇が挙兵に至った原因だと考えられるものはいくつかある。
一つは、3代将軍である源実朝が暗殺されたことで、危機感を覚えた、というもの。武士と言うよりは公家のような体質の実朝は、上皇に対して忠誠を誓っており、上皇は実朝が将軍として存在する間は安心できていた。しかし、彼が暗殺されたことで、幕府が朝廷を脅かすような行動に出ることを怖れた、というものである。
直接の引き金になったと考えられる事件は、上皇が寵愛する伊賀局であったという。彼女の領地である摂津の長江・倉橋荘の地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に要求していたが、幕府はこれを拒否した。おかげで上皇の面目は丸潰れになった、というもの。
5月14日 |
後鳥羽上皇が、鳥羽城南寺の流鏑馬揃えと称して、畿内と周辺14ヶ国の兵1100余騎を召集。 |
5月15日 |
後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を発令。 |
5月19日 |
鎌倉に急報がもたらされる。北条政子の演説が行われる。 |
5月22日 |
午前6時頃、北条泰時が18騎を率いて鎌倉を進発。 |
6月5日 |
木曽川沿岸にて両軍戦闘開始。 |
6月10日 |
延暦寺が後鳥羽上皇の援軍依頼を拒絶。 |
6月13日 |
両軍、宇治川をはさんで豪雨の中、戦闘開始。 |
6月15日 |
幕府軍、15万余騎が京都を占領。後鳥羽上皇は院宣を取り消し、幕府に従う意向を示す。 |
7月13日 |
後鳥羽上皇、隠岐へ流される。 |
7月21日 |
順徳上皇(25歳)、佐渡へ流される。 |
8月7日 |
幕府、勲功のあった武士に恩賞を与える。 |
閏10月10日 |
土御門上皇(27歳)、土佐へ流される。 |
この戦いで上皇に与した武士や公家の多くは斬罪・流罪など厳罰に処せられ、彼らの土地は没収された。これらの土地は、勲功のあった武士達に恩賞として分配された。しかし、得分の先例がない土地では地頭の権力がどこまで及ぶのかが曖昧であっため、幕府は新たな基準を設けた。これを新補率法という。
新補率法では地頭に
@11町につき、1町の給田(年貢・公事を免除された免田)が与えられる
A1反あたり5升の加徴米を徴収できる
B山野河海からの収入は荘園領主・国司と折半する
などが認められている。
この新補率法の適用を受けた地頭を新補地頭、それ以外の地頭を本補地頭と呼んで区別することがある。
二品(にほん:従二位の北条政子のこと)、家人等を簾下に招き、秋田城介景盛(安達景盛)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえれば、群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺みて返報を申すに委しからず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ。
上皇による義時追討の宣旨は、幕府や御家人には大きな衝撃であった。実際、在京中の御家人達は上皇に味方しており、公家の多くは院宣の権威を以てすれば、幕府は簡単に打ち砕ける、と思っていた者が多かったという。
しかし、「尼将軍」の異名をとる北条政子は、頼朝以来の恩義を御家人達に訴えかけ、彼らの心を動かすことに成功した、と吾妻鏡は伝えている。
次ニ王者ノ軍ト云フハ、トガアルヲ討ジテキズナキヲバホロボサズ。頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給ル。コレミナ法皇ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンバ、上ノ御トガトヤ申ベキ。謀叛オコシタル朝敵ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ。カカレバ時ノイタラズ、天ノユルサヌコトハウタガヒナシ。
「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」は、南北朝時代に北畠親房が南朝の正統性を説くために著した歴史書である。大雑把に分類すれば、朝廷を支持する側の書物なのであるが、承久の乱については「一往ノイハレバカリニテ追討セラレンバ、上ノ御トガトヤ申ベキ」と、大義がない追討令を出した後鳥羽上皇が悪い、と厳しい見解を示しているのが特徴的である。
事実、この乱の勝利をきっかけにますます幕府の権力は増大し、反対に朝廷の権威は減衰していった。