939年(天慶2年)11月21日、平将門(37歳?)が常陸の国府(現在の茨城県石岡市)を襲撃し、常陸介である藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕縛し、印鎰(いんやく:国の印と倉の鍵。これを奪うことは国の行政権と財政権を奪うことになる。)を奪うという事件が発生した。
事件のきっかけは、常陸の住人・藤原玄明(ふじわらのはるあき)にあった。玄明は常陸介の維幾と一騒動起こして将門に庇護を求め、将門は玄明を匿った。維幾は玄明の身柄引き渡しを要求していたが、将門はこれを拒否したことで、両者に対立関係が生まれた。さらに、将門の宿敵である平貞盛が維幾のもとに身を寄せていたこともあり、将門は1000余りの兵を率いて常陸の国府に向かったのである。
貞盛と維幾の息子、藤原為憲(ふじわらのためのり)はおよそ3000人の国軍を動員して将門軍迎撃に向かったが敗れ、国府は占領されて国衙(こくが:国の役所)は焼き払われた。貞盛と為憲は逃亡したが、維幾は捕らわれの身となり、戦いは将門軍の勝利に終わったのである。
これまで将門が関わってきたのは平家一族内の紛争と、武蔵国紛争の調停などの水準であったが、今回の常陸国府襲撃事件で、朝廷に対する反乱という様子を帯びるようになった。これがきっかけとなり、将門はあからさまに他国の国府をも襲撃、ついには独立政権を樹立するに至る。
平家一族との紛争、そして今回の常陸国府襲撃など、戦いでは将門に軍配が上がることが多かった。その将門の軍事力を支えたのは騎兵軍団だったと考えられている。
将門の本拠地である下総北西部の猿島郡は利根川の下流域であり、数多くの川と水路が複雑に入り組んでおり、大規模な水田経営には不適な場所であったという。しかし、自然の区画を利用した牧場経営には好適だったようで、将門は大結(おおゆい)牧、長洲牧を管理する牧場経営者でもあった。坂東地方は馬が特産で、良質の馬を数多く抱えていたという。また、鉄の生産も活発であり、武具の製造には事欠かなかったようだ。実際、9世紀後半から関東の製鉄遺跡は急増しており、将門の本拠地付近でも製鉄炉や鍛冶工房などの鉄生産遺跡が出土しているという。
これらの馬と鉄で成り立った騎兵軍団と、将門の優れた軍事能力が合わさって強力な軍事力が生まれ、兵力で劣っていても数々の戦いで勝利を重ねてきたと考えられている。
<参考書>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)
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