平将門が新皇を自称

天慶2年(939年)11月に常陸国府を襲撃した平将門(37歳?)は進撃を続け、12月には下野、次いで上野の国衙を占領した。上野の国衙を占領した際、陣中で一人の男が、皇室の祖先であり、武神でもある八幡大菩薩の使いであると名乗り、自分の位を将門に授けると、神の託宣を伝えたという。
12月15日、将門はこの託宣を受けて「新皇(しんのう)」を名乗り、坂東八カ国(上野、下野、常陸、下総、上総、安房、相模、伊豆)の国司(受領)に弟達や有力な武将を任命する除目(じもく)の式典を執り行った。なお、上野介であった藤原尚範は19日に上野の国を追放された。
こうして、将門は名目上、朝廷から独立した王国を建設したことになった。平家一族の私闘から始まった一連の争乱は、ついに朝廷に対する公然とした反乱となったのである。


平将門の乱と律令体制の崩壊

結果だけをみれば、将門は朝廷に対する逆賊となる。しかし、乱がここまで大きくなったのは、将門の野心というよりも、律令体制の崩壊にある、という見方がある。10世紀、坂東諸国では国司らの貪欲で恣意的な姿勢で政治が乱れ、群盗が横行する慢性的な治安崩壊状態にあった。私営田領主らは自衛のために血縁や姻戚関係を核とし、土豪や農民を組織して武装集団を作り上げていた。将門もそういう私営田領主の一人であることに変わりはなかった。これらの私営田領主らと国司の対立は次第に激しくなっていき、この対立に平家一族の私闘が加わったことが、一連の争乱になった、ということである。言い換えると、将門はこれらの対立関係に巻き込まれていった、ということである。

<参考書>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)

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