1192年(建久3年)7月12日。源頼朝(46歳)が朝廷より征夷大将軍に任命された。
平氏を滅ぼし、弟の義経と奥州藤原氏を滅ぼしたことで、日本は頼朝の手によってほぼまとめられていた。頼朝はかねてより征夷大将軍の位を求めていたが、これを嫌う後白河法皇(66歳)の強い反対によって、かなわなかった。しかし、この年の3月に法皇が没すると、親幕派の関白・九条兼実(くじょう かねざね:44歳)らによって朝廷人事の改革が進められ、ついにこの日の任命となった。
鎌倉幕府の成立はどの時点か、という問題にはいくつかの考えがある。頼朝が旗揚げし、鎌倉に政権を作り上げた時(1180年)とする考え、寿永宣旨を受けて東国支配権を手に入れた時(1183年)とする考え、日本国惣追捕使・惣地頭に任命された時(1185年)とする考え、などである。
<中央>
侍所(さむらいどころ)
初代別当(長官)は和田義盛(わだ よしもり:46歳)。軍事・警察・御家人の統率などをとりしきる。
公文所(くもんじょ)
初代別当は大江広元(45歳)。一般政務、財政を扱う。後に、政所(まんどころ)と改称。
問注所(もんちゅうじょ)
初代執事は三善康信(みよし やすのぶ:53歳)。訴訟・裁判を担当。
<地方>
京都守護(きょうとしゅご)
在京御家人の統率。洛中の警備・裁判。朝廷との折衝などを担当。
鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)
鎮西(九州)の御家人を統率。
奥州総奉行(おうしゅうそうぶぎょう)
奥州の御家人を統率。訴訟の取次ぎなどを担当。
守護・地頭
守護・地頭の設置を参照。
鎌倉殿に忠義を誓い、家人となった武士を御家人という。鎌倉幕府は、土地を媒体とした幕府(鎌倉殿)と御家人による封建的主従関係で成立していた。
御家人は鎌倉殿に対し、軍役(ぐんやく:合戦の際は鎌倉殿に馳せ参じて戦う)・番役(京都大番役と鎌倉番役)・関東御公事(かんとうおんくじ(かんとうみくうじ):内裏・幕府・寺社などの修造営役)などの義務を負っており、これを奉公といった。
一方、鎌倉殿は御家人に対して、先祖伝来の土地を所有することを保障し(本領安堵)、新たな所領を与える(新恩給与)ことを約束した。これを御恩といった。なお、御恩については、御家人を地頭職に任命するという形で与えられたという。
幕府の支配が及んだ地域は、大きく分けて3つに分類することができる。
関東御領(かんとうごりょう)
鎌倉殿の荘園のこと。主に平家没官領や謀叛人の所領などで構成される。これらの土地に地頭を任命し、地頭は軍役・番役はもちろん、鎌倉殿の土地であるため、年貢・公事・夫役なども納めた。
関東御分国(かんとうごぶんこく)(関東知行国)
鎌倉殿の知行国(徴税権が及ぶ国)。これらの国には、鎌倉殿が国司を派遣し、年貢・公事・夫役などを納めた。地頭ではないため、軍役・番役はなかったらしい。1186年時点では、駿河、伊豆、相模、武蔵、下総、上総、信濃、越後、豊後の9ヶ国。のち、4〜6ヶ国に減少していく。
関東進止所領(かんとうしんししょりょう)
鎌倉殿が、荘園・国衙領において地頭の任命権を持つ土地。これらの土地には、将軍が地頭を任命し、地頭は軍役・番役を納めるが、その土地から入る年貢や公事・夫役は土地の所有者である貴族や寺社に納めていた。
これに準じた土地として、鎌倉殿が地頭を推薦できる権利を持った関東御口入地(かんとうごくにゅうち)があった。
このように、幕府の経済的支配が直接及んだ地域は限られていたと考えられている。
<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
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