文久元年(1861年)10月。老中の安藤信正(43歳)は、14代将軍・徳川家茂(16歳)の正室として、孝明天皇の妹・和宮親子内親王(かずのみやちかこ ないしんのう:16歳)を迎えることに決定した。
この婚姻の狙いは、失墜した幕府の威信を回復させると同時に、幕府と朝廷が一体となることで二重政権による外交上の問題を解消し、さらに尊王攘夷派が幕府にたてつく理論的根拠を消滅させることであった。この政策を公武合体(こうぶがったい:「公」は「朝廷」、「武」は「幕府」を意味する。)と呼んでいる。
和宮の降嫁については、孝明天皇はじめ、尊攘派の公家など数多くの反対を受けたが、安藤が話をまとめることになんとか成功した。しかし、一部の過激尊攘派志士は、この政策に激しく反発したのである。
公武合体という政策は、机上論としては優れたものかと思われるが、実際にこの婚姻をまとめるには、安藤の政治力と多額の金が必要であった。まず、この婚姻に大反対したのが孝明天皇である。天皇は病的なほどの外人嫌いであり、日本に外人が入り込むことは絶対認めようとしなかった。つまり、かなりの攘夷派だったのである。通商条約についても勅許が出されなかったのは、特に孝明天皇の外人嫌いがおおきく影響している。その天皇にとって、外人が上陸して貿易を行っている横浜に近い江戸に妹を輿入りさせるなどということは、絶対に認められるものではなかった。安藤は多額の金を朝廷にばらまいて公家を味方につけ、天皇を説得させた。さらに、軍備を整えて近いうちに攘夷を決行し、外国人を日本から追い払うという約束をとりつけて、やっと天皇を納得させたのである。
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