弘安の役

 1281年(弘安4年)5月。かねてより日本遠征の準備を進めていた元は、前回を上回る大遠征軍を進発させました。遠征軍は二手に分かれて編成されました。一つは東路(とうろ)軍と呼ばれ、蒙古人、高麗人らおよそ4万2000の兵からなり、およそ900隻の軍船で高麗の合浦(がっぽ)を出港しました。率いる将軍は忻都洪茶丘(こうさきゅう)、高麗人の金方慶らです。もう一つは江南(こうなん)軍と呼ばれ、主に滅んだ南宋の人々で構成され、その数はおよそ10万。総大将は阿剌罕(あらかん)。副将に南宋人の范文虎(はんぶんこ)が付きました。江南軍は中国沿岸の寧波から3500〜4000隻もの軍船で出港し、壱岐で東路軍と合流する予定でしたが、総大将の阿剌罕が急病で倒れ、代わりに阿塔海(あたはい)が総大将となったとか、滅亡して間もない南宋人の戦意が低く、兵と軍船の召集が思うように進まなかったなどで出発が大幅に遅れてしまいました。そのため、最初は東路軍のみで攻撃が始まりました。
 5月21日、文永の役と同様に、最初に対馬が襲われ、再び殺戮と略奪の地獄絵図が描かれました。そして 5月29日、東路軍は壱岐に襲い掛かります。当時、壱岐の守護は日本軍の総大将である少弐経資(56歳)の三男、少弐資時しょうに すけとき:19歳)が守護(守護代?)として壱岐を守っていました。若き大将となった資時は、船匿(ふなかくし)城に籠城して波のように押し寄せる元軍相手に小勢で必死の防衛戦を繰り広げましたが、最後は家来数名を引き連れて元軍に果敢に切り込み、何本もの毒矢を受けて壮絶な最後を遂げた、と伝えられています。
 そして、6月6日。東路軍は博多湾に姿を現しました。

弘安の役 両軍戦力表

元軍

日本軍

兵数

東路軍 4万2000
江南軍 およそ10万
計  およそ14万
軍船 およそ5000隻

兵数

少弐氏
菊池氏
大友氏
九州・中国・四国御家人
幕府軍はじめ関東御家人 など
およそ6万5000

将軍

・東路軍
忻都
洪茶丘
金方慶(高麗人)

・江南軍
阿塔海
范文虎(南宋人)

参戦武将

少弐経資(56歳)
(太宰少弐、鎮西奉行 総大将)
少弐景資(36歳)
(経資の弟)
少弐資能しょうに すけよし:84歳)
(経資の父)
北条宗政
(時頼弟、執権名代)
大友頼泰おおとも よりやす
(豊後守護)
安達盛宗あだち もりむね
(肥後守護)
竹崎季長(36歳)
(肥後御家人)
相良頼俊さがら よりとし
(肥後御家人)
河野通有こうの みちあり
(伊予御家人)
秋月種家あきづき たねいえ
(筑前御家人 兵力2700)

 博多湾を守る日本軍の備えは、前回よりも格段に充実していました。まず、沿岸に築かれた石塁が強い防御力を発揮しておりました。また、参陣した武士団は九州だけに留まらず、西国や関東の御家人も参陣しており、非御家人も動員されていました。その兵力は文永の役の6倍近くに倍増していたのです。また、手柄を立てようとして士気盛んな河野通有の一党は、石塁の上ではなく石塁を背にして陣を敷いたと伝えられております。後に「河野の後ろ築地(ついじ)」と呼ばれ、その戦意の高さを賞賛されました。さて、東路軍は上陸を試みますが、日本軍の守りを突破することができません。被害が甚大になることを恐れた東路軍は、いったん兵を収めて後退。博多湾の北方に位置する志賀島と能古(のこ)島に船を係留して停泊しました。能古島は博多湾に浮かぶ島で、沿岸からは2kmほど離れております。志賀島は能古島よりさらに3kmほど北に浮かぶ島です。
 その夜、戦疲れでぐっすり休んでいたであろう元の軍船に、小船でひそひそと近づく一団がおりました。それは、河野通有ら、一部の御家人らでした。彼らは元の軍船に近づいて飛び移り、船上で激しい白兵戦を繰り広げました。不意を突かれた元軍はおおいに混乱し、被害を受けたそうです。小船による日本軍の攻撃は昼夜をわかたず行われ、元軍は船でゆっくり休養することができなったようです。日本軍による攻撃はそれだけではありません。志賀島は確かに「島」ですが、博多湾沿岸から東をぐるりと回って志賀島のすぐそばまで陸が続いて(この陸は「海の中道」と呼ばれています)おり、船を使わなくてもすぐそばまで行けるという位置関係にありました。豊後守護の大友頼泰、肥後守護の安達盛宗らは海の中道を進んで陸路から攻撃を仕掛けました。こうして、攻撃側であるはずの東路軍が、上陸を阻まれたことによって逆に守りに回るようになってしまいました。東路軍は、いったん博多湾から退却して壱岐まで後退していきました。おそらく、大軍である江南軍と合流してから再度攻撃するつもりだったのでしょう。しかし、その江南軍はこの頃まだ出港もしていない状態でした。
 そんな中、日本軍は積極的に攻勢に出ます。6月末〜7月の初頭、壱岐に停泊する東路軍の船団を、肥前松浦党や竜造寺氏などの日本軍の船団が襲撃したのです。この戦いには、壱岐で戦死した少弐資時の祖父・少弐資能も84歳という高齢でありながら、参戦しています。おそらく、孫の弔い合戦だったのでしょう。壱岐島の戦いは両軍の痛み分けで終わったようです。少弐資能は乱戦の中で受けた傷がもととなって、戦後間もなく死去しています。東路軍は壱岐から離れ、肥前の鷹島に移動しました。当時、肥前鷹島は元軍の拠点となっていたようです。
 7月29日、ついに江南軍が10万の兵を載せて、肥前平戸で東路軍と合流しました。およそ5000隻にも及ぶ大船団は、先頭が平戸に到着しても後続はまだ東シナ海にいるという、桁外れの規模です。しかし、これだけの大軍団はその力を発揮することはありませんでした。7月30日夜半、この方面は台風に襲われたのです。後年、「神風」と呼ばれた台風です。この台風で元の軍船は荒波に飲み込まれ、大半が水没し、多くの兵が海中に没するという大惨事を招きました。波打ち際には、壊れた船の資材やら兵の遺体が打ち上げられ、博多湾には多量の残骸が溢れていたそうです。なんとか台風を免れた軍船は鷹島に集合し、范文虎らが打開策を協議しました。その結果、范文虎らの上級軍人は航海可能な船で帰国し、船に乗れなかった数千人の兵士は置き去りにされてしまったのです。置き去りにされた元の兵士たちは、なんとかして帰国しようと、木を伐採して船を建造しようとします。しかし、鷹島の奪還に向かった少弐景資竹崎季長らの軍勢に襲撃され、討死あるいは捕虜となり全滅しました。

 こうして、およそ2ヶ月半に及ぶ弘安の役は幕を閉じました。前回の文永の役と合わせて、2回の元軍の襲来を元寇と呼んでいます。弘安の役の後も、元や高麗はたびたび日本に使者を送り、3度目の襲撃をにおわせてました。そのため、幕府は3度目の襲撃を警戒し続けなければならず、1293年に鎮西奉行の代わりに鎮西探題を設置し、異国警固番役も九州の御家人らに課せられ続けました。また、この戦いで日本は領土や利権を得たわけではないので、幕府は御家人らに十分な恩賞を与えることができず、「御恩と奉公」の関係に亀裂が生じ、御家人社会の変質の一因となり、やがては鎌倉幕府滅亡に繋がっていったのです。

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・秋月郷土館
・人吉城歴史館

<関連史跡>
壱岐 少弐資時の軌跡 博多湾 肥前鷹島

・船匿城 (長崎県壱岐市芦辺町)
・少弐資時像 (同上)
・壱岐神社 (同上)
・少弐資時の墓 (船匿城跡内?)

・蒙古塚 (志賀島、能古島)
・元寇記念碑 (鷹島)
・龍面庵(少弐景資本陣) (同上)



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