孝明天皇崩御

<概要>

慶応2年(1866年)12月25日午前11時半頃、孝明天皇(36歳)が崩御した。病名は流行性の出血性痘瘡(天然痘)だったと考えられている。
病気が発症したのは、12月11日に内侍所で行われた神楽の席であった。天皇は風邪気味で健康状態は思わしくなかったが、おしてこれに出席した。この無理が災いしたのか、高熱を発してうなされるようになり、顔や手に吹き出物が現れるようになった。17日、15名の典医は正式に「痘瘡」と診断し、七社七寺に祈祷が指示された。公卿らが見舞いに参内し、21日には15代将軍になったばかりの徳川慶喜も参内していたが、この日崩御された。
幕府は第二次長州征討に失敗し、薩長により討幕計画が秘密裏に進められている時勢であった頃に、佐幕論者の孝明天皇が崩御したことは幕府にとって大きな痛手であった。この翌年、岩倉具視ら一部の公卿と薩長主導の討幕計画はついに実行に移されることなり、幕府はその歴史に幕を閉じることになる。そのため、天皇は実は暗殺されたのではないか、という憶測が当時から飛び交っていた。その真偽の程は不明であるが、孝明天皇の崩御が幕府の崩壊を早める結果となったのは間違いないだろう。


孝明天皇暗殺説

孝明天皇の崩御は、時期が時期だけに、暗殺されたという説が当時から囁かれていた。イギリス外交官のアーネスト・サトウはその著書「一外交官の見た明治維新」の中で
「噂によれば、天皇は天然痘にかかって死んだということだが、ある日本人が私に確言したところによると、毒殺されたという。天皇は保守的で、外国に対していかなる譲歩も認めなかったため、朝廷が諸外国との関係に直面しなければならなくなることを予見した一部の人々に殺された、という。」
という内容が記述されているという。もちろん、これだけでは天皇毒殺説を確かなものとする証拠にはなり得ない。しかし、当時から毒殺説が憶測されていたことは注目に値するだろう。
毒殺説を支持する証拠として、一時危篤状態になった天皇の容体が回復した、と記す史料が残っているという。中山忠能なかやま ただやす)の記録によると
「此御様子に候はば、惣て御順道との儀承り、恐悦存上候」
となっているという。天皇の容体は22日頃から徐々に回復に向かい、24日には吹き出物の膿も出て乾燥し始め、典医らは「御順当」と報告していたという。ところが、24日夜(25日明け方とも)から容体が急変し、顔には紫の斑点が現れ、喀血もあった。一時、回復状態に向かった容体が突如急変したのは奇妙だ、というのである。
暗殺だとするならば、誰の手によるものなのだろうか。よく挙げられるのが岩倉具視説のようだ。岩倉は薩摩藩の大久保利通らと共に、討幕運動を進めた討幕派公卿の中心人物である。動機はないとはいえないだろう。佐幕論者の天皇を消すために、天皇が筆をなめる癖があることを利用して、筆に毒をしみ込ませた、というものらしい。長州藩の伊藤博文説もあり、彼が直接刺殺したという。しかし、これでは「毒殺」と記す上記アーネスト・サトウの記録とは内容が異なるものである。だいたい、伊藤は剣術に優れていたわけではない。むしろ、素人に近かかったようだ。また、忍者のような隠密暗殺行動ができるわけでもない。そんな彼が、宮中に侵入して天皇を殺害するなどはあまりに突飛な話であり、信憑性はないと考えられている。
ここでは、暗殺の真偽について判定を下すことはできないが、暗殺説が登場するほど、天皇の死が歴史の流れに与えた影響は大きかった、と考えられるだろう。

<参考>
・日本全史(講談社)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む (世界文化社)

幕末年表へ戻る
侍庵トップページへ戻る