堀田正睦老中首座就任

<概要>

1855年(安政2年)10月9日。下総佐倉藩主(11万石)の堀田正睦ほった まさよし:46歳)が阿部正弘(37歳)に代わって老中首座の席に就いた。堀田は以前にも老中を務め、水野忠邦と共に藩政改革に励んでいたが、忠邦の失脚よりも一足先に老中を辞任していた。そのため、今回は再任という形になる。
堀田の登用は、井伊直弼いい なおすけ:41歳)はじめ、阿部の幕府雄藩協調路線に反対する譜代大名らとの融和を図るため、と言われている。特に、徳川斉昭(55歳)の圧力で、溜間詰(たまりまのづめ ※下の説明参照)の老中、松平乗全まつだいら のりやす:62歳)、松平忠優まつだいら ただます:45歳)の2名を8月4日に罷免したことが、溜間詰の譜代大名の怒りをかっていた。そこで、阿部が溜間詰の堀田に老中首座を譲ることで彼らの怒りをおさめようとした、ということである。
こうして、しばらくは堀田・阿部が幕政を担って外交問題に取り組むことになる。


蘭学好きの堀田正睦

老中首座に就任した堀田正睦は早くから開国思想を持ち、蘭学好きで有名な人物であった。佐倉藩の天保の改革では、洋学を奨励し「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほどであった。そのため、堀田は「蘭癖(らんぺき)」「西洋かぶれ」と揶揄されていたという。

譜代大名の格

阿部正弘は雄藩外様大名も幕政に参画させたが、本来幕政に参画できるのは、譜代大名であることが原則であった。この譜代大名の中でも、「格」が設定されていたのである。彼らが政務を執る場所は、江戸城の黒書院(くろしょいん)にある溜間(たまりのま)であるため、「溜間詰」あるいは「溜詰」と呼ばれていた。
この「溜間詰」大名の中にも格が存在していた。将軍家の縁戚(家門)でもある会津松平、讃岐松平は「常溜(じょうだまり)」と呼ばれ、姫路の酒井家、伊予松平、忍(おし)松平、桑名松平の4家は「飛溜(とびだまり)」と呼ばれていた。堀田正睦の佐倉堀田家は「溜間格」といい、老中を辞任した者1代に限って溜間詰に準ぜられた。他には若狭小浜の酒井家も「溜間格」である。一度老中を経験している堀田は溜間詰であった。

<参考>
・日本全史(講談社)
・幕末維新 新選組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)

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