平将門の乱

935年(承平5年)2月、下総国北西部の猿島・豊田郡の領主である平将門たいらのまさかど:33歳?)と、常陸大掾(ひたちのだいじょう:「掾」は国の役人の4階級の一つで上から3番目。)で平氏一族の族長格である平国香たいらのくにか)らが、ついに武力衝突を起こした。以前から、将門と国香らの間で紛争が発生しており、両者は対立関係にあったという。
事の発端は、常陸国新治(にいはり)郡の土豪平真樹たいらのまき)が、前常陸大掾の源護みなもとのまもる)との紛争調停を、将門に依頼したことであった。将門はこれに応えて常陸に向かったが、ここで将門を討ち取ろうと画策している者たちがいた。将門の伯父である平国香と、源護の3人息子、源扶みなもとのたすく)、源隆みなもとのたかし)、源繁みなもとのしげる)である。彼らは筑波山西麓の野本付近で将門を待ち伏せし、旗をなびかせ鉦をうって将門に襲い掛かった。 しかし、将門は追い風を利用して逆に彼らを蹴散らして散々に打ち破った。源扶源隆源繁の3人兄弟は揃って戦死、平国香は炎に包まれた屋敷で自害して果てた。将門軍の勢いは凄まじく、筑波、真壁、新治の3郡500余戸を焼き打ちにしたという。

<その後の展開>

この戦いでその軍事力を見せ付けることになった将門と、自害した平国香の息子、平貞盛たいらのさだもり)を筆頭とした反将門派の間で激しい私闘が繰り広げられることになる。この戦いが平将門の乱の始まりとされているが、当初は坂東における平氏一門の内部抗争という様相を呈していた。


戦いの背景

将門と反将門派の対立の原因となったものはいくつかあるようだ。まず一つは、一族の姻戚関係で将門が孤立していた、ということ。平貞盛や、叔父の平良正たいらのよしまさ)、平良兼たいらのよしかね)らは皆、源護の娘婿であった。前常陸大掾として強い力を保持していたと思われる源護と姻戚関係を持つことは、大きな政治的権力の獲得につながったのだろう。この点で、将門は一族から孤立しているかのような様相を呈している。また、将門の妻は平良兼 の娘らしいのだが、この戦いの4年前に結婚問題で紛争が起きていたらしい。
もう一つは、将門の父・平良将たいらのよしまさ:「良持:よしもち」とも)の遺領を巡る問題である。良将は陸奥鎮守府将軍に任じられており、一門の中では郡を抜いた高官であった。しかし、将門がまだ少年の頃に没したために、国香らが良将の遺領を横領した、という話である。成長した将門が、父の遺領相続を求めても国香らは応じなかったらしい。
この戦いはこれらの原因が積み重なった結果だった、と考えられている。

桓武平氏

桓武平氏とは、桓武天皇の子孫が「平」という姓を賜ったことで始まった家柄であり、将門は桓武天皇から数えて六代目。彼らは皇族の血を引いていた。いわば「貴人」である彼らが地方に土着し、在地の有力土豪らの武装勢力の主となって、大きな武士団を形成していった、と考えられている。
桓武平氏の略系図は以下の通り。
桓武平氏略系図

<参考書>
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)

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