吉田松陰が密航に失敗

<概要>

嘉永7年(1854年)3月28日午前2時頃、吉田松陰よしだ しょういん:25歳)と弟子の金子重之輔かねこ しげのすけ:24歳)と共に、下田に停泊していたペリー艦隊に小船を寄せ、密航を希望したが拒絶されて失敗に終わった。
列強の圧力に対抗する道を模索していた松陰は、自身の目で外国を見ることを決意し、前年は長崎に来航したロシア艦に密航しようとしたが、松陰が長崎に到着した時にはロシア艦は出港した後だったという苦い経験を持っていた。今回は下田郊外を散策中のアメリカ人士官に密航希望の手紙を渡して準備をしていた。しかしアメリカ側は、密航という幕府の禁令を破り今後の外交関係に影響を及ぼすことを恐れ、二人を強引に陸に送り返したのである。2人はこの日のうちに自首して捕らえられ、江戸に送られた後、長州藩に身柄を引き渡されて萩の牢に幽閉された。
金子は翌年獄死(享年25)。松陰が師事していた学者の佐久間象山さくま しょうざん:44歳)も、2人の密航に同意していたとして4月6日に捕らえられて国許の松代に蟄居の身となった。


吉田松陰の生い立ち

松陰は文政13年(1830年)に、長州藩・萩の松本村で、杉百合太郎すぎ ゆりたろう)の次男として誕生した。幼名は虎之助という。家は貧しかったが、父・百合太郎の手で教育を受けてきた。父・百合太郎は長男で、弟は二人おり、二人とも優れた学者になっていた。次男の大助は山鹿流軍学指南の吉田家の養子となって家を継ぎ、三男の文之進も玉木家を継いでいた。しかし、大助は子が無いまま病に倒れたため、虎之助を養子とし、名を吉田大次郎と改めた。天保6年(1835年)のことである。翌年、大助が没したため、虎之助は吉田家の家督を継いだ。
松陰は神童と讃えられるほどの天才児であった。天保9年(1838年)には兵学教授見習として藩校・明倫館に入った。わずか9歳である。11歳の時には藩主の前で軍学を講じるほどになった。希に見る天才といえるだろう。この天才は、ただの天才では終わらなかった。彼は積極的でありすぎるほどの実践家でもあった。
嘉永4年(1851年)、22歳のときに脱藩して東北遊学を断行し、嘉永6年(1853年)には浦賀に来航したペリー艦隊に密航しようとして捕まった。密航の目的は海外視察だったという。それほど、彼は議論や理論といった学問の世界だけではおさまらない人物だった。
密航に失敗した松陰は幕府に身柄を拘束され、江戸は伝馬町の牢に投獄されたが、後に萩へ移送された。萩藩には二つの牢があり、一つは身分の高い者が入る野山獄(のやまごく)、それ以外の者は岩倉獄に入ることになっていた。吉田家は山鹿流軍学指南の家なので、松陰は野山獄に入った。獄中生活といっても、彼の場合は決して暗く寂しいだけのものではなかったようだ。野山獄は武士の中でも上の階級の者が収容されているため、教養の高い人物が多かった。彼は、俳句を嗜む囚人から俳句を学び、論語に詳しい囚人からは論語を学び、書道の名人には書道を学んだ。一方、彼自身は孟子を講義し、囚人同士で教え教わりあう繋がり(今風に言えば「サークル」だろうか)が形成され、看守までもが参加を願い出るほどの盛況だったと言われている。
安政2年(1855年)に牢を出、その後松下村塾を主宰し始めてからも、松陰は教壇から大人数に対して講義を行うという形はあまりとらず、一人一人と個別に接してそれぞれに適した能力を引き出すことに努めた、と言われている。

松陰と赤穂浪士

吉田家の家学は山鹿流軍学であり、その始祖は山鹿素行やまが そこう)である。素行は江戸時代中期の古学派の学者であり、幕府の官学である朱子学を批判して、赤穂に流されたことがあった。しかし赤穂藩では彼を師と仰ぎ、藩士達も素行の教育を受けていた。赤穂浪士を率いて吉良邸に討ち入った大石内蔵助も、少年の頃に素行の薫陶を受けていたという。吉田松陰と赤穂浪士は山鹿流軍学という一つの学問で縁があったのである。
松陰が密航に失敗して、江戸に送られる途中、赤穂四十七士が葬られた泉岳寺に立ち寄った際、彼は一首の歌を詠んだ。

かくすれば かくなるものとは しりながら やむにやまれぬ 大和魂

歌の意味は「こうすれば、こうなるとはわかっていたが、やめることはできなかった(我が)大和魂」といったところだろうか。この歌から察するに、松陰の中では、赤穂浪士の討ち入りは藩主への忠義のための、やむにやまれなかった行動であり、実行したら罰せられるのは覚悟の上だった、ということなのである。彼の密航という国禁を犯した行為も、日本のためにやむを得ずにやったものであると、自らの行動を赤穂浪士になぞらえているのである。

<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・幕末維新 新撰組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)
・日本全史(講談社)

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