蒙古からの使者

 13世紀。東アジアの大国・宋の北方、モンゴル高原で、ある騎馬民族が飛躍的にその力を伸ばしていました。その部族の指導者・チンギス・ハンは、優れた部下達と強力な騎兵軍団に支えられて周辺の部族を切り従え、1206年にはモンゴル高原を統一。この騎馬民族の領地はモンゴル高原だけに留まらず、東西南へ進出していき、西はイスラム教の国を滅ぼし、さらにヨーロッパにまで攻め込みました。南は、女真人の国「金」を滅ぼし、漢民族の国「宋(南宋)」を圧迫していました。そして、東は朝鮮半島の国「高麗」にも軍を送り込み、激戦を繰り広げて、ついに高麗を服属させました。この世界史上最大の版図となった騎馬民族の国を、鎌倉時代の日本では「蒙古(もうこ)」と呼んでいました。
 1268年(文永5年)1月。高麗から、国書を携えた使者が大宰府に到着しました。使者の名は潘阜はんぷ)。彼は高麗の国の使者ですが、持っていた国書は、高麗と蒙古の両国の国書でした。国書の内容は
1.日本との通交と親睦
2.日本は蒙古の臣下としない
というものだったそうです。これらの内容が認められない場合は、武力行使に及ぶことが書かれていました。これは重大事です。
 この国書は筑前守護の手によって直ちに鎌倉へ送られ、閏1月8日に到着。幕府から朝廷に奏上されました。対応について連日評議を重ねた結果、朝廷は「返書を送らない」ということで決定しました。無視する、ということですが、それでおさまるような相手でないことは、想像がついたようです。幕府は2月27日に讃岐の御家人らに、蒙古襲来に備えるように命令を出し、さらに執権の北条政村ほうじょう まさむら:64歳)に代えて、連署の北条時宗ほうじょう ときむね:18歳)を執権に立てて、対蒙古政権を編成しました。一方の朝廷は、3月に諸国の社寺に異国降伏の祈祷を行うように命令を出しています。朝廷の対応はそれだけにとどまらず、7月17日には皇居、延暦寺にて異国降伏を祈りました。
 そもそも、蒙古が日本と何らかの国交を持とうとした理由は何なのでしょうか?日本にとっては寝耳に水の重大事件だったかもしれませんが、蒙古にとっては、東アジア制覇戦略の一手であったようです。蒙古は、高麗を服属させるためにたびたび戦を交える一方で、1261年、南宋に宣戦しています。南宋は衰えたりとはいえ、優れた歴史と文化を持つ漢民族の国でしたから、いくら蒙古といえども、南宋を完全に制圧するのは骨の折れる仕事だったようです。そこで、朝鮮半島の高麗、さらに海を隔てて東の日本を蒙古の陣営に組み入れて、南宋を国際的に孤立させる、というのが蒙古の東アジア戦略だった、と考えられています。

 さて、文永5年は返書を送らず、蒙古襲来に備えることで過ぎていきましたが、蒙古から再び使者がやってきます。1269年(文永6年)3月7日、蒙古の使者・黒的こくてき)と高麗の使者が、返書を持って対馬にやってきました。ちなみに、この黒的という人物は、潘阜が来日する前に、日本に来ようとしたことがありました。時は少し遡って1266年(文永3年)11月28日、高麗の案内で黒的は日本に向けて出発したのですが、1267年(文永4年)1月に、朝鮮の巨済島から引き返してしまっています。ともあれ、対馬にやってきた蒙古と高麗の使者は、対馬の島民を拉致して帰っていきました。脅しをかけたわけです。4月26日、知らせを受けた朝廷は再び評議を重ね始めます。武力行使の前触れと見れる対馬島民拉致に対し、かなりの衝撃と恐れを抱いたようです。9月17日、高麗の使者・金有成きんゆうせい)が対馬に来て、島民2名を返すと同時に、国書を届けました。年が明けて1270年(文永7年)1月11日には対馬に再度蒙古の船がやって来ました。蒙古の本腰に恐れを抱いた朝廷は返書を出そうとしますが、幕府はそれを抑えて返書を出そうとしません。蒙古襲来はいよいよ目前かと思われましたが、この年の6月、高麗で大規模な反乱が起こりました。蒙古の支配に抵抗する高麗の軍隊が、あちこちで蒙古の軍と抗争を起こしました。この反乱は三別抄(さんべつしょう)の乱と呼ばれ、蒙古は反乱の鎮圧に手を焼き、対日本戦略は後回しにされたそうです。
 1271年(文永8年)9月19日、蒙古から趙良弼ちょうりょうひつ)が筑前今津にやってきました。趙良弼は京都入京と国書の奏上を要求しますが、大宰府はこれを拒否。国書の写しを幕府に送り、使者を帰しました。度重なる蒙古の来訪に対し、12月16日、勅使が伊勢神宮で異国降伏を祈祷しました。その効果があったのか?翌年は蒙古からの使者は訪れませんでしたが、翌々年の1273年(文永10年)3月、再び趙良弼が大宰府を訪れました。そして再度、京都入京を要求しますが、これも固く拒否され、彼らは帰りました。しかし、これで使者が来日したのはもう6回目。最初の来日から5年の月日が流れています。今回の使者が、事実上の最後通告になったのです。

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)

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