生麦事件

<概要>

1862年(文久2年)8月21日午後2時頃。江戸から帰途についた島津久光(46歳)の行列を、騎乗したまま横切って乱したイギリス人4名が殺傷されるという事件が起きた。死亡したのはイギリス商人リチャードソンで、他2名も負傷した。
事件を知ったイギリスは、幕府と薩摩藩に対して犯人の身柄引き渡しと賠償金の支払いを要求した。幕府にすれば、薩摩藩が起こした揉め事の責任をとらされるのは甚だ不本意であったが、イギリスは艦隊を派遣して威しをかけたため、やむを得ず10万ポンド(約30万両)もの賠償金を支払わされたのである。
一方、事件を起こした薩摩藩は、非はイギリス人にあるとして、イギリスの要求には一切応じようとしなかった。

<その後の展開>

幕府を脅したイギリス艦隊はその足で薩摩藩に趣くが、薩摩藩は拒否を続けたため、薩英戦争が勃発する。


もうちょっと詳しく

事件現場に居合わせたイギリス人は、死亡したリチャードソンの他に、クラーク、マーシャル、ボロデール夫人。クラークとマーシャルは腕や肩を斬られて負傷したという。この事件を知った神奈川奉行・阿部越前守は、久光に下手人の捜査と現地滞留を要求したが、薩摩藩の回答は「下手人は岡部新助という足軽で、行方をくらました。」であった。この岡部新助というのは架空の人物である。また、現地滞留についても「昔から行列に対して無礼を働いた者は打果すのがしきたりであり、我らに非はない。」と答えて、帰国してしまった。
イギリス代理公使・ニールは、外交交渉で下手人の処刑と賠償金の支払いを要求するという方針を示して本国に連絡。イギリス本国の外務大臣・ラッセルはニールの方針通りの要求を書簡で薩摩藩に通達し、従わない場合は、鹿児島を砲撃すると脅した。薩摩藩は、非はイギリス人にあるという方針を貫いたため、ニールは軍艦7隻を率いて薩摩へ向かうことになった。

<参考書>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・幕末維新 新撰組と新生日本の礎となった時代を読む(世界文化社)

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