1858年(安政5年)4月23日。近江彦根藩主の井伊直弼(いい なおすけ:44歳)が大老に就任した。以前から13代将軍・徳川家定(とくがわ いえさだ:35歳)の継嗣問題で紀伊徳川家の徳川慶福(とくがわ よしとみ:13歳)を推す南紀派と、徳川斉昭の子で御三卿の一橋家を継いだ一橋慶喜(22歳)を推す一橋派が対立していたが、井伊は南紀派の首領であった。井伊の大老就任は、同じく南紀派の老中・松平忠固(まつだいら ただかた)や、実妹を家定の側室に送り込んだ紀州藩江戸家老の水野忠央(みずの ただなか)らの大奥工作によるものと言われている。
一橋派の岩瀬忠震(いわせ ただなり)、永井尚志(ながい なおむね)、鵜殿長鋭(うどの ながとし)らが老中達を詰問したが、井伊はこの日のうちに御用部屋に入って老中を相手に政策を論じる。井伊の目指すところは、5年前のペリー来航から始まった阿部正弘らによる雄藩との協調路線ではなく、かつての幕府独裁型の復活であった。
5月1日には、将軍家定に、継嗣を徳川慶福とする旨を老中に伝えさせ、同月6日には開明派だった大目付の土岐頼旨(とき よりむね)、勘定奉行の川路聖謨(かわじ としあきら:58歳)を左遷。また、老中首座の堀田正睦(49歳)は、難局打開のために次第に一橋派に傾いていき、越前福井藩主の松平慶永(まつだいら よしなが:31歳)を大老に推したが、家定に拒否されてしまった。そのため、勅許獲得に失敗したことを理由に6月23日に罷免された。
戦国時代、徳川家康に仕えて活躍した井伊直政(いい なおまさ)を祖とする近江彦根藩35万石の井伊家は、譜代大名の中でも別格の家柄で、井伊家は「溜間詰」であり、城中での席次は老中よりも上座であったという。
また、将軍が上野寛永寺や紅葉山に参詣する時には先立を務め、大礼があるときは京都への使者をつとめ、大事があるときは大老となって老中の指揮をとる家柄とされていた井伊家では、徳川家とは一切縁組を行わずに幕臣としての立場を貫いた。その一環として、嗣子以外の男子はすべて他家へ養子に出すなどして、分家も作らないという決まりがあった。
直弼が生まれたのは文化12年(1815年)。11代藩主・井伊直中(いい なおなか)の14男として誕生した。幼名は「鉄之介」という。直弼は他家への養子の口が見つからず、藩から年間300俵の扶持をもらって北屋敷と呼ばれるささやかな屋敷で暮らしていた。彼はここを「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけ15年あまりの歳月を過ごした。その屋敷の名からは、世に出ることもできずに朽ち果ててしまう自分の運命を嘆く気持ちが伝わってくる。
そんな彼に出世の転機がやってきた。父の跡を継いだ兄の直亮(なおあき)には嫡子ができず、兄弟である直元を養嗣子としていたのだが、直元は弘化3年(1846年)に病没したのである。そのため、直弼が代わって世子となった。32歳の時のことである。そして、直亮が死去し、嘉永3年(1850年)に第13代彦根藩主の座に就いた。
安政の大獄で、尊攘派志士を徹底的に弾圧した彼は悪役として描かれることが多いが、横暴なだけの男ではなかったようだ。
「埋木舎」で無為な時間を15年過ごしていたわけではなく、居合、禅、茶道、歌道などの諸芸に触れてその道に精進していたという。居合いは新心流の奥義を極めて「七五三居相秘伝書」を著し、茶道では石州流の片桐宗猿(かたぎり そうえん)に師事して「茶湯一会集」「閑夜茶話」という書を著した。直弼が大老となったのは家柄の力のみならず、譜代大名の中でも決して引けをとらない教養の力もあったのではないだろうか。