1837年(天保8年)2月19日。大坂で、大坂町奉行所の元与力(よりき)で陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう:45歳 号は「中斎」)が、「救民」の旗を立てて一揆を起こした。この事件は大塩平八郎の乱と呼ばれている。
天保年間は全国的に飢饉がおこり、貧農や都市下層民らの生活は窮乏、餓死者が続出していた。そのため、百姓一揆や打ちこわしが頻発していたのである。大塩は与力を引退した後、私塾・洗心洞(せんしんどう)にて教育に専念していたが、前年の飢饉の時は、自分の蔵書を売却したお金で、飢える民衆の救済にあたった。しかし、大塩個人の力だけでは焼け石に水であったようだ。それに対して、為政者である大坂の役人は私利私欲に走るのみで、貧民の救済など行おうとしなかった。そのため、大塩とその門弟20余名(80余名とも)は檄文を飛ばし、大坂周辺の村から集まった農民約300名(700名とも)と共に武装蜂起したのである。
この乱は1日で鎮圧され大塩は逃亡したが、3月27日、逃亡先を役人に包囲されたため、自害して果てた。
大塩平八郎の乱は、発起人が元役人であり、しかも幕府直轄地の大坂で起こしたということで、その影響が大きかったようである。幕府・諸藩はこの乱の勃発に動揺し、各地で不穏な動きが見られた。
この年の6月、越後の柏崎で大塩の弟子と称する国学者の生田万(いくた よろず:37歳)が陣屋を襲撃した生田万の乱がその代表例である。
大塩平八郎の私塾・洗心洞跡の石碑。 |
大塩平八郎が誕生したのは寛政5年(1793年)。大坂町奉行所の与力となった初代の大塩六兵衛成一から数えて八代目であり、以後、大塩家は代々与力として禄を受けていた。
平八郎は7歳の時に父母と死別し、祖父母に育てられた。14歳で与力見習となり、成年に達してから祖父の跡を継いで与力となった。与力時代の平八郎は学識が高い清廉潔白な人物として、功績を残したという。天保元年(1830年)に養子の格之助に与力職を譲って引退した。
彼には3回人生観の転機があり、最終的には実践的と言われている儒学の一派・陽明学に傾倒した。24歳ぐらいの頃から自邸で儒学の講義をしており、文政8年(1825年)に学塾「洗心洞」を開いた。門弟の数は40〜50人に達し、厳格な学風で知行合一の実学を重んじていた。
(石碑横の説明文(造幣局)より)
この乱は江戸時代後期、幕末の動乱に入る前の時期に発生した。彼が発した檄文は、摂津・河内・和泉・播磨の貧農に宛てられている。檄文に記されている蜂起の目的は、不正役人と米を買い占める豪商、貧民を苦しめる高利貸しを誅殺し、商人および諸藩の蔵から金銀と米を奪って貧しい者に分配すること、となっている。江戸時代後期の乱ということに加え大砲まで持ち出していることから、大塩の乱は討幕が目的だったと思われることもあるようだが、檄文を見る限りでは一揆参加の呼びかけであり、討幕までは述べられていない。もっとも、商人だけを襲うのではなく、幕府の役人も誅殺すると公言しているため、幕府に対する反乱という要素がないわけではない。
午前8時頃、大塩邸の向かいにある与力・朝岡助之丞の屋敷に大砲が打ち込まれたことが始まりとなった。この19日は孔子を祭る式典が行われる日で、門人が集団で行動しても怪しまれず、さらに東町奉行・跡部良弼(あとべ よしすけ)と、新任の西町奉行・堀利堅(ほり としかた)が巡視の後に朝岡邸で休息することになっていたためであった。大塩は養子の格之助はじめ、門人を率いて自宅を焼き払った。これが、事前に蜂起計画を伝えていた民衆への合図であった。
しかし、大塩の同志で東町奉行所与力・平山助次郎が17日に、蜂起の計画を跡部に密告。さらに18日には同心・吉見九郎右衛門が西町奉行に密告していたのである。乱の鎮圧に向かったのは土井利位(どい としつら:49歳)と、跡部・堀であった。跡部と堀は、大砲の音に馬が驚いて落馬するという体たらくであったが、大塩勢も門弟以外は烏合の衆とさして変わらず、午後には鎮圧された。