明治37年(1904年)5月1日の鴨緑江(おうりょっこう)の戦いは、日露戦争における最初の陸の戦いであった。2月に仁川より上陸した黒木為(くろき ためもと:61歳)大将率いる第一軍は朝鮮半島を北上していた。その第一軍の前に立ちはだかったのが、大河の鴨緑江とロシア軍の守備隊である。
鴨緑江は川幅が広く、水深も深い難所であった。橋もかかっておらず、対岸には砲を備えている九連城が日本軍を待ち構えていた。この戦いは陸の緒戦ということもあって、国内外を問わず注目を浴びていたといわれている。戦費を外債で調達する日本にとっては、この緒戦で大勝することが望まれていた。緒戦からすでに苦戦しているようでは、海外の投資家から資金を集めることが難しくなるのである。そのため、後に参謀本部長に就任する児玉源太郎(こだま げんたろう)は、第一軍に緒戦で必ず勝つことを指示し、また数が限られている砲を豊富にもたせてやった。中でも、ドイツのクルップ社より購入した20門の最新式12センチ榴弾砲は大きな戦力であった。
4月、鴨緑江に到着した第一軍は早速偵察を始め、ロシア軍の分析をはじめた。守るのはザスリッチ将軍であったが、彼は日本人を甘く見ていたのか、職務怠慢なのかはわからないが、大砲や塹壕を偽装することもせずそのまま放置しており、備えを日本軍にこれ見よがしに露呈していたのである。そのため、第一軍はロシア軍の防衛状況をほぼ正確に把握し、綿密な作戦を立てることができた。4月25日、作戦行動が開始され、各部隊が行動を始めた。攻撃が開始されたのは5月1日の払暁である。近衛師団、第二師団(仙台)は砲の支援を受けながら、正面から中州を目指して川を渡り、予め左翼に回っていた第十二師団(小倉)もこれに合わせて進撃を始めた。第一軍の火力は次々とロシア軍の砲台を沈黙させていった。ロシア軍は完全に油断していたのか、攻撃を受けて右往左往する有様であり、まともに防衛態勢をとるこもできずに総崩れになったという。捕虜となった将兵らは次々と日本軍に情報を提供し、ロシア軍の防衛線は次々と破られていった。
大苦戦を強いられると考えられていた鴨緑江の戦いであったが、1日の戦いで九連城も陥落し、結果は日本軍の圧勝であった。日本軍の死傷者はその後の追撃戦を含めて1039名であったが、ロシア軍はほぼ倍の2000名ほどの死傷者を出して敗走したのである。この勝利が世界中に報道され、日本の戦債の売れ行きは伸び始めた。一方、敗れたザスリッチ将軍は「史上初めて黄色人種に破れた白人」として名前を刻まれてしまったのである。
しかし、日露戦争はまだ緒戦が終わったのみである。血で血を洗うような、両軍ともに多量の死者を出す近代戦争の恐ろしさが見えてくるのは、この後のことであった。