1853年(嘉永6年)6月。相模国浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊提督・ペリー(60歳)が軍艦4隻を率いて現れ、その武力を背景に久里浜に上陸。開国を要求する国書を幕府に渡した。これまで、アメリカはじめ、イギリス、ロシア、オランダなどからたびたび開国を要求されていたが、一貫して鎖国策を採る幕府は全て拒絶してきた。今回のペリー来航は、近代軍艦の武力に圧倒されたのか、約300名もの兵士の上陸を許している点で特徴的である。幕府は翌年春に回答することを約束し、ペリー艦隊はいったん本国に引き返すこととなった。
これまでの外交政策はほぼ幕府の独断で処理されていたが、時の老中首座・
7月にはロシアのプチャーチン(51歳)が長崎に来航し、開国と国境確定交渉を要求している。
また、6月22日には12代将軍・
徳川幕府開幕から250年。幕末の動乱が始まる。
本庄栄治郎氏の「日本経済思想史研究」によると、ペリー来航と開国問題についての幕府の諮問に対する諸藩の意見をまとめると、以下のようになるらしい。
開国論を唱えるのは16藩、攘夷論を唱えるのは2倍以上の34藩で、4藩は意見なし。
開国論の内訳は、積極的に交易を勧めるのが2藩、消極的なものが14藩。
攘夷論の内訳は、開戦も辞さない藩が8藩、平和的拒絶を唱えるのが26藩。
全体的に見ると、鎖国策を指示する意見が多く、攘夷のためには開戦も辞さないという血気盛んな藩も8藩ある。阿部正弘の対策をまとめてみると、以下のようになる。
政権担当者 |
なお、13代将軍に就任したのは家慶の嫡子・
1840〜42年、隣国の清とイギリスの間で起きたアヘン戦争で清が大敗を喫してから、諸藩では防衛力強化の必要性を感じていた。大砲鋳造のための反射炉を最初に築き始めたのは佐賀藩で、これより3年前の1850年10月である。また、名君と名高い薩摩藩主・島津斉彬も佐賀藩に続いて反射炉を築いている。
西洋文明の摂取に最も積極的だった島津斉彬は、軍事技術に限らず、機械・紡績・ガラスなどの洋式工場や、日本最初の溶鉱炉を建設している。これらの洋式工場群は
幕府はこれまでの独断専行の外交方針を覆して、諸藩の協力を得ようとしているが、これは幕府の仮想敵国が欧米列強にはっきりと向けられた結果と見ていいだろう。徳川幕府の仮想敵国は家康以来、外国よりも国内諸藩(特に外様大名)に向けられていたようだが(結果的には、その方針も誤りではなかったのだが)、ペリー艦隊の来航で諸藩よりも恐ろしい存在が目に見えて表れたのである。阿部正弘の対策は、幕府・諸藩が連合して外敵にあたるという、挙国一致体制を目指していたとうかがうことができる。
アメリカのペリーが日本にやって来た。
というと、太平洋を横断して来たと思うだろうが、実は大西洋からぐるりと迂回して来ているのである。「ペルリ提督日本遠征記」(岩波文庫)によると、1852年11月24日(日付は西暦か?)にアメリカ西海岸のノーフォークを出港し、大西洋を横断した。その後の主な経緯は以下の通り。
1853年1月24日 ケープタウン(アフリカ大陸南端)
3月10日 セイロン島
3月25日 シンガポール
4月7日 香港
5月4日 上海
5月26日 琉球
出港以来、約半年もの月日をかけて日本にやってきたのである。
この頃のアメリカは、メキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを獲得。1848年にはそのカリフォルニアで金脈が発見され、西部開拓が一気に加速した(ゴールドラッシュと呼ばれている)時代であった。
なお、ペリー来航当時のアメリカ大統領はフィルモア。ペリーの旗艦の名前は「サスケハナ」号という。