ポーツマス条約

概要

日露戦争の事実上の最終決戦となった奉天会戦日本海海戦は日本の勝利に終わった。この頃、日本は既に国力の限界に達しており、これ以上の戦争継続は不可能であった。また、相手のロシアも度重なる敗戦で戦争継続の士気は萎えていた。かねてから短期決戦を考えていた日本は、アメリカに講和の仲介を頼んでおり、ロシアもアメリカの調停案を受けて、1905年(明治38年)8月、アメリカ北東岸の軍港・ポーツマスにて講和会議が開かれた。日本側全権は外務大臣・小村寿太郎(51歳)、ロシア側全権はウィッテ(57歳)である。
ウィッテの巧みな駆け引きにより、日本側が要求した賠償金と領土割譲は認められなかったが、最終的に両者は9月5日に講和条約を締結し、日露戦争は終結した。条約の主な内容は以下の通り。

@ロシアは、韓国に対する日本の指導・監督権を認める。
Aロシアは日本の旅順・大連の租借権を認める。また、長春以南の鉄道(南満州鉄道)と付属の利権を譲渡する。
Bロシアは日本に、北緯50度以南の樺太と付属の諸島を割譲する。
Cロシアは沿海州とカムチャッカにおける日本の漁業権を認める。

当時の日本政府は、国力が底を尽き掛けている事を諸国に知られないようにするために、国民にも自国の内情は秘密にしていたという。そのため、新聞などによる戦勝報告しか聞いていない多くの国民は、10年前の日清戦争のように、多額の賠償金と領土を獲得できることを期待していた。そんな中、賠償金がびた一文もらえないことが報道されると、たちまち講和反対・戦争継続の声が高まり、東京では日比谷公園に集まった民衆が暴徒化して、政府施設や警察署などを襲撃するという事件が起こった(日比谷焼打ち事件)。


動員兵力と戦費

日露戦争で日本が動員した兵力と戦費は以下の通り。

○動員兵力:108万8996人(軍属は含まず)
・戦地勤務: 94万5394人
・内地勤務: 14万3602人

○戦死者:8万1455人
・戦闘死:6万0031人
・病死 :2万1424人
(腸チフス:8701人 脚気:5896人 赤痢:2654人 など)
○戦傷病者:約44万人

●臨時軍事費
・収入:17億2121万円
(約6億円は内債、約7億円は外債、残りは増税などで賄った)
・支出:15億0847万円
・残高: 2億1274万円
(一般会計に繰り入れ)

日露戦争の規模の大きさは、これらのデータからもうかがい知ることができるだろう。戦死者は10年前の日清戦争のおよそ6倍、軍事費は同じくおよそ8倍にも膨れ上がっていた。

ポーツマス条約

第二条
露西亜(ロシア)帝国政府ハ、日本国カ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ、日本帝国政府カ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方(あた)リ之ヲ阻礙(そがい)シ又ハ之ニ干渉セサルコトヲ約ス・・・

第五条
露西亜帝国政府ハ、清国政府ノ承諾ヲ以テ、旅順口、大連並其ノ付近ノ領土及領水ノ租借権及該租借権ニ関連シ又ハ其ノ一部ヲ組成スル一切ノ権利、特権及譲与ヲ日本帝国政府ニ移転譲渡ス・・・

第六条
露西亜帝国政府ハ、長春(寛城子)旅順口間ノ鉄道及其ノ一切ノ支線並同地方ニ於テ之ニ付属スル一切ノ権利、特権及財産及同地方ニ於テ該鉄道ニ属シ又ハ其ノ利益ノ為メニ経営セラルル一切ノ炭坑ヲ、補償ヲ受クルコトナク且清国政府ノ承諾ヲ以テ日本帝国政府ニ移転譲渡スヘキコトヲ約ス・・・

第九条
露西亜帝国政府ハ、サハリン島南部及其ノ付近ニ於ケル一切ノ島嶼並該地方ニ於ケル一切ノ公共営造物及財産ヲ完全ナル主権ト共ニ永遠日本帝国政府ニ譲与ス、其ノ譲与地域ノ北方境界ハ北緯五十度ト定ム・・・

(出典「日本外交年表竝主要文書」)

賠償金・領土という、一般にもわかりやすい形で利権を得ることはできなかったが、詳細に内容を見ていくと、日本が獲得した利益は 決して些少なものではないことがわかる。
まず第二条では、以前からの懸案だった朝鮮問題である。ポーツマス条約が締結される直前のことだが、日米英の三国間で戦後は日本が朝鮮を支配することを認める協定が結ばれていたのである。今回、ロシアにもそれを認めさせたことにより、国際的にも日本が朝鮮を支配することが認められたのである(支配される側の朝鮮にとっては迷惑極まりない話であるが、帝国主義時代では力のある国こそ正義であっただろう。)。これは5年後、韓国併合により事実上日本の領土となるのである。
第五・六条は日本が南満州の利権を確保したことを意味している。特に、この条文では「付属」「関連」「其ノ一部」「一切ノ権利」というように抽象的な言葉が多く、共通認識を容易に得られるような具体的な基準となる言葉が使われていない。つまり、拡大解釈することができる。1906年に関東都督府南満州鉄道株式会社が設置され、やがては満州国の建国に至り、日本は多大な利益を得ることに成功する。
第九条では、南樺太の割譲が示されている。73%を森林地帯が占める樺太では、1907年に樺太庁が設置され、林業・パルプ工業が栄えた。樺太庁の歳入の5割は国有林の伐採によるものであったという。樺太工業会社も設立され、日本三大製紙会社の一つとなった(残り二つは富士製紙と王子製紙)。

<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本史史料集(駿台文庫)

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