桜田門外の変

<概要>

安政7年(1860年)3月3日。安政の大獄を断行した幕府大老・井伊直弼(46歳)が、江戸城桜田門の外で、17名の水戸藩浪士・1名の薩摩藩浪士の集団に斬殺されるという事件が起こった。安政の大獄で、水戸藩は藩主・徳川慶篤が隠居、その父・徳川斉昭は永蟄居という処分が下されていた。また、水戸藩で盛んな尊皇攘夷論と、井伊直弼の幕府独裁型の政策は相性のよくないものであった。これらの要因が積み重なって、一部の過激派が事に及んだのである。この事件は桜田門外の変と呼ばれている。

桜田門
現在の桜田門。(2003年12月11日 撮影)

<その後の展開>

幕府の大老が江戸城付近で斬殺されるという事件は、幕府権力の失墜を表す象徴的な事件であった。井伊の死後、幕府の政治は老中の安藤信正が担っていくことになる。井伊の幕府独裁型の方針は改められ、公武合体という新たな政治方針が立てられる。


改元

この年の3月18日。年号が万延に改元された。従って、井伊直弼が殺害された日はまだ安政7年となるのだが、一般には万延元年3月3日と表記されることが多いらしい。

烈公・徳川斉昭死去

この年の8月15日。前水戸藩主・徳川斉昭が水戸城にて病没した。享年61歳。永蟄居の処分が下されたままであった。
諡(おくりな)は「烈公れっこう」。

浪士たちのその後

井伊直弼暗殺に加わった浪士のうち、稲田重蔵は現場で闘死。後に自訴して処刑された者が9名、逃亡後に自刃した者が4名、逃亡先で捕らえられて斬罪となった者が2名、明治時代まで逃げ延びた者が2名である。暗殺者達のその後は惨めなものだったようだ。

桜田門外の変は防ぐことができた?

井伊直弼は、水戸藩浪士らが不穏な動きをしているから、警護の人数を増やしたほうがいい、という忠告を受けていたらしい。しかし井伊は「大老が幕府の法を破ることはできない」と言って、事件の日も通常の人数で登城したらしい。
もしも、井伊がこの忠告を容れて警護を厳重にしていたら、井伊の暗殺は失敗に終わったかもしれない。そうなると、幕末の歴史は大きく変わっていただろう。

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