旧幕府征討軍は薩摩、長州をはじめとする諸藩の軍の他に、封建的束縛からの解放を求める農商階級出身者からなる部隊も数多く存在した。これらは草莽隊(そうもうたい)と呼ばれており、この事件の主役である相楽総三(さがら そうぞう:30歳)率いる赤報隊(せきほうたい)も、そんな草莽隊の一つであった。
赤報隊の前身は、薩摩藩による江戸攪乱工作に活躍した浪士隊であった。討幕を企てていた薩摩藩は、開戦の火蓋を切るために幕府をしきりに挑発しており、300とも500とも言われるこれらの浪士を使って、江戸市中で辻斬りや押し込み強盗をやらせていたという。相楽もそれが天下国家のために繋がると信じていたようだ。
赤報隊は1月、新政府首脳から旧幕府領の年貢半減を認めた御達書を得て、諸藩に協力を求め農民にこれを宣伝し、新政府軍の先鋒として中山道を東に向かっていた。悲劇は、「年貢半減」という非現実的な標語から始まった。当時の新政府は、必要な戦費を賄うために三井や鴻池といった京都・大坂の豪商から献金させなければならないほど財政的に窮乏しており、年貢半減を認める余裕などはなかった。やがて、新政府は年貢半減を取り消すのみならず、年貢半減をさかんに宣伝した赤報隊に「偽官軍」の汚名を着せて逮捕したのである。逮捕された隊員60名は諏訪神社の並木に縛り付けられていた。
慶応4年(1868年)3月3日。この日は前夜から氷雨が降り続く寒い日だったという。赤報隊員は飲食も与えられずに極寒の中を放置されていた。この日の夕刻、8名が町外れの諏訪湖の畔の刑場に連行され、罪人として斬首された。相楽は最後に斬首された。薩摩藩のために尽力した者達には、あまりに憐れな最期であった。他の草莽隊も、似たような運命をたどったものが多いという。
<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
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