なんとか元軍の攻撃を防ぎきった鎌倉幕府でしたが、二回目の襲来に備えなければなりません。1275年(文永12年)2月4日、まずは沿岸警備として異国警固番役(いこくけいごばんやく)を九州御家人に命じました。その代わり、鎌倉番役、京都大番役は免除されたそうです。
(「新日本史B」によると、異国警固番役は文永の役の前から設置されていたそうですが、今回の指示で九州各国の守護、御家人が交代で受け持つようになったそうです。)
4月15日、元の使者が今度は長門の室津にやって来ました。使者の代表者は杜世忠(とせいちゅう)といいます。
「九州だけでなく、長門も狙われているのでは・・?」
と、思ったのでしょうか。幕府は5月20日、長門、周防、安芸、備後の御家人に長門の警固を命じます。というのも、元使は使者であると同時に偵察部隊でもあったからです。当時の日本は鎖国の江戸時代とは異なり、朝鮮、中国との交易も盛んに行われていました。博多をはじめとした貿易都市に外国人がいることも、そんなに珍しいことではなかったのでしょう。文永の役の前に訪れた趙良弼などは、そんな状況をうまく利用して、日本の返事を待っている間に博多周辺をしっかりと見聞し、後でフビライに報告して褒められたそうです。
さて、幕府は今回の使者を鎌倉まで連れてきて、9月7日に竜の口で斬首に処しました。相手国の使者を斬るという行為は、宣戦布告しているようなものです。幕府はあくまで元と戦う覚悟をしたことがうかがえます。
幕府は元に対して、二つの策を採りました。一つは鎮西奉行の少弐経資を大将とし、九州、山陰、山陽、南海道から御家人はもちろん非御家人、梶取(かんどり)、水手(かこ)を動員して遠征軍を編成し、高麗に攻め込むという攻撃策。もう一つは、襲来が予測される博多湾を中心に襲来が予測される長門まで、沿岸に石塁(石築地:いしつきじ)を築いて守りを固めるという防衛策です。この二つの策はほぼ同時進行で進められ、1276年(建治2年)3月5日に動員令を出し、同年3月10日に石塁構築の命令を出しています。しかし、高麗遠征計画は無理が多い策なので中止となり、実行されたのは石塁構築だけでした。そして、この石塁が2度目の襲来、弘安の役でたいへん役立つことになりました。
(管理人私見
高麗遠征計画は、幕府も最初から実行する気はなかったと思います。本当に実行する気だったのは石塁構築で、高麗遠征計画はそのための布石だった、ということです。動員される御家人から見れば、石塁構築も厄介な仕事だと思いますが、高麗遠征に比べればだいぶ楽でしょう。なので、最初に高麗遠征という負担の大きい案を出しておいて、代案として石塁構築という負担の小さい案を出すことで、幕府も折れたように見せかける、そして御家人を納得させる、という筋書きだったのでは・・・??)
その後しばらく元からの使者は来ませんでした。というのも、この頃から元は南宋の攻略に本腰になっていたためです。元の攻略は着々と進み、日本を訪れた南宋商人などから「もうそろそろ南宋は元に滅ぼされる。」という噂がもたらされていたそうです。そして1279年(弘安2年)2月、ついに南宋は元によって滅ぼされてしまいます。南宋を滅ぼした元が、次は日本に矛先を向けるのは自然と予想できることでしょう。それから間もなく、再び元から使者として周福(しゅうふく)らが来日しました。彼らが持参した書状は朝廷に奏上されましたが、朝廷はこれを却下します。そして7月29日、周福らは博多で斬られました。南宋が滅んでも、日本は元に従わない、という方針を採ったわけです。
フビライは2度目の日本遠征を決め、前回を上回る大軍を送り込むために高麗人、南宋人を動員して軍船の建造にあたらせました。また、元軍の襲来を間近に感じた幕府も、御家人らに警戒を強めるように命令を出します。幕府はさらに、非御家人も動員して防衛にあたらせるなど、これまで幕府権力が及ばなかった人も一時的に指揮下に収めました。そして、いよいよ元が再び襲来してきます。
<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
<関連史跡>
・石塁 (福岡県福岡市西区など数箇所)
・杜世忠らの塚がある 「常立寺」(神奈川県藤沢市)
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