四国艦隊下関砲撃事件

<概要>

元治元年(1864年)8月5日。イギリスを中心としてアメリカ、フランス、オランダの4ヶ国17隻の連合艦隊が長州藩の下関を攻撃した。長州藩は前年の5月10日(幕府が定めた攘夷決行の日)から、下関海峡を通航する外国船に向って砲撃を繰り返していた。今回の攻撃はそれらに対する報復である。
前月の禁門の変で敗れ意気消沈している長州藩は士気が低く、戦闘開始後1時間程で下関の砲台はほぼ壊滅。6日には陸戦隊が上陸して砲台を占領した。


壇ノ浦の沿岸公園に安置されている青銅砲のレプリカ。
(写真撮影:2004年5月2日)


伊藤と井上の緊急帰国

この連合艦隊による下関攻撃は、イギリス公使のオールコックが中心となってこの年の1月から計画されていた。当時、密かにイギリスに留学していた伊藤博文(24歳)と井上馨いのうえ かおる:30歳)は、この計画を知って緊急帰国。オールコックと会見し、自藩を説得する時間がほしいと要望した。オールコックもこれに答え、彼らをイギリス鑑に乗せて豊後の姫島まで送った。国に帰った伊藤らは攘夷決行の無謀を説いたが、彼らの言葉に耳を貸す者はいなかったという。

事件の経過

7月18日に連合艦隊の出撃が通告され、8月4日に横浜を出港。17隻が備える砲は合計288門、兵数は約5000人であった。
8月5日午後4時10分、イギリスのユーリアラス号の戦闘開始の合図で艦隊は砲撃を開始した。1時間ほどで田野浦、串崎の砲台は破壊され、6日には約2000人の陸戦隊が上陸。8日までに全ての砲台が破壊され、弾薬などは海中投棄された。
長州藩は8日に高杉晋作(26歳)を正使とする使者を派遣し、14日に停戦協定が結ばれた。

多額の賠償金

この事件で幕府は列強から300万ドル(約225万両)もの賠償金を要求された。返済途中で幕府は滅び、150万ドルが未払いとなったが、この未払い分は明治新政府が引き継いで返済し、1874年に返済完了した。

<参考>
・高等学校新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)

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