第一次長州征討で幕府に屈服した長州藩であったが、元治元年(1864年)12月から年が明けて元治2年(1865年)にかけて、内紛が起こった。この内紛で活躍したのが、高杉晋作である。彼は、奇兵隊はじめ自らが提案して創設した近代的軍隊に呼びかけ、ひたすら幕府にひれ伏す保守派を打ち倒し、長州藩を倒幕に向わせたのである。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで敗れた毛利家が、ついに徳川家の打倒に向けて動き出した。
元治元年12月15日夜。功山寺の決起
高杉晋作 は、伊藤俊輔率いる力士隊約80名と功山寺にて純一恭順派の打倒の兵を挙げた。藩論をひっくり返すには、80名はあまりに少ない兵力だっただろう。しかし、高杉は三条実美ら5卿に
今から長州男子の腕前をお目にかけます
と、決意を告げて下関へ向った。翌日、彼らは下関新地会所(藩の馬関奉行所にあたる)を襲撃し、囲い米を民衆に配分したのである。この時は、他の諸隊の呼応にまでは及ばなかったが、藩の空気を変えるには十分な効果があったのかもしれない。
年が明けて元治2年(1865年)1月2日。豊前田を占拠して対峙していた高杉らは、椋梨藤太(むくなし とうた)らの純一恭順派(高杉らは「俗論党」と呼んでいる)政権の打倒をうたった檄文を発し、これがきっかけとなって奇兵隊などの諸隊が呼応した。
これに対し、藩庁は鎮圧軍を美禰(みね)郡絵堂村に派遣。蜂起した諸隊に退去と武器返納を命じた。しかし、諸隊はこれに応じずに絵堂を急襲し、藩庁軍を破って大田を占領した。藩庁は援軍を大田に派遣したが、激戦の末、高杉らはこれをも打ち破ったのである。7日には御楯隊の太田市之進らは小郡(おごおり)を占拠し、この地の庄屋・林勇蔵ら28人の支援を受け、山口へ進撃した。諸隊は藩庁軍を破って萩に迫り、藩庁では中立派の鎮静会議が台頭を始め、長州藩は再び変革しようとしていた。一方の幕府ではこの事態が伝わっていなかったのか、15日に藩主・毛利敬親(もうり たかちか)父子の服罪を受けて、長州征討の中止を布告している。しかし、当の長州藩では、29日に純一恭順派で占められていた首脳部が更迭され、3月15日には奇兵隊などを再編成して軍制改革を行い、3月17日に毛利敬親は武備恭順を藩論とすることに決定した。
こうして、高杉晋作の決起は、見事に藩論を転換させ、長州藩は倒幕に向って動き始めた。