元禄元年(1688年)11月12日、
柳沢は万治元年(1658年)12月に江戸は市ヶ谷で生まれた。最初の名前は「房安」だったが、「佳忠」→「信元」と改め、延宝3年(1675年)に家督を継いだときに「保明」と名乗った。父・安忠は3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長に仕えていたが、忠長が改易された後は、家光に仕え、やがて館林25万石の綱吉に仕えることになった。吉保も幼い頃に綱吉に謁見し、当然のように綱吉に仕えることになった。
綱吉が将軍に就任した延宝8年(1680年)には
数名いる側用人の中でも、特に綱吉のお気に入りだった柳沢はその後も加増が続き、元禄7年(1694年)には72,030石で川越城主となり、元禄14年(1701年)には綱吉から一字を賜り「吉保」と改名し、美濃守に任じられさらに「松平」の姓を許された。最終的には宝永元年(1704年)に将軍の後継に決まった甲府城主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)に代わって甲府城主となり、翌年にはさらに加増されて、都合228,700余石の大名となったのである。甲府はこれまで徳川家の一族しか城主になれなかった土地である。
このように、吉保は綱吉のもとで破格の出世を遂げるだけでなく、実質的には幕政を動かす力を持ち、その権勢は人を畏れさせると同時に嫉妬や妬みも受けたと言われている。
柳沢家は甲斐源氏・武田、一条の支族で、甲斐国巨摩郡武川筋柳沢村から興った。戦国時代、この地方の青木・馬場・柳沢・横手・山高ら12氏は「武川12騎」(時代によっては「武川24人衆」)と呼ばれて活躍していたという。
後年、吉保が甲府城主となった遠因の一つがここにある。
もちろん、主従関係であるのだが、学問においても一種の師弟関係のようなものがあったようである。学問好きの綱吉にとっては、学才の有無は重要な要素だっただろう。
まず、吉保が綱吉に初めて謁見したのは寛文4年(1664年)。当時、吉保は7歳の少年で、綱吉は19歳の青年であった。吉保の出仕は延宝3年(1675年)。父・安忠が隠居し、家督を継いだ年からである。綱吉が将軍となった翌年(天和元年=1681年)の6月3日、吉保が綱吉の文学の弟子とされた、という記録が残っている。さらに23日には孔子の弟子である曾子の画像に詞書を添えた一紙を与えられている。儒教好きの綱吉と、才能ある吉保の師弟関係が読み取れる。
柳沢吉保は将軍のご機嫌をとって出世した佞臣という印象が流布し、さらに忠臣蔵をはじめとした時代劇・小説などでも悪役で登場することが多いが、決して無能ではなかったと思われる。綱吉と同様に、学問に才のある人物だったようだ。天和2年(1682年)の元旦、綱吉は新たに「読書初め」という式典を催しはじめ、これが毎年恒例になった。その際、治者の心得を示す「大学」の「三綱領」を購読するという栄誉を与えられたのである。吉保に学才がなければ、いくらお気に入りでもこのような待遇は与えられないだろう。
吉保は学才があっただけではなく、綱吉の心情を的確に捉える能力も備えていたようだ。もっとも、この能力がいわゆる「媚・へつらい」ととられることもある。彼が川越城主となった時、35ヶ条からなる定書を公表した。元禄7年(1694年)2月10日付けである。その第一条に
公儀御法度の儀、いよいよ堅く相守るべきこと
と説かれている。「公儀御法度」とは、幕府が決めた法令のことを指すと思われる。当然、生類憐れみの令も含まれているだろう。吉保は、自分の領地でも生類憐みの令を徹底させることを暗に示したのである。後に甲府城主となったときも、定書の第二条に
生類憐憫の儀、堅く相守るべきこと
という一文が加えられている。今度ははっきりと、生類憐みの令を遵守することを明記しているのである。生類憐みの令は、幕府領では徹底されたが、諸藩にはあまり及ばなかったらしい。このことと比較すると、吉保の定めたこの法令は、やはり綱吉への配慮だったと思われる。
そんな綱吉・吉保の深い関係は、綱吉が吉保の屋敷に何度も訪れていることからも読み取れる。その数、なんと58回である。最初は元禄4年(1691年)3月22日、吉保の江戸屋敷が新築された時のことだった。いったい58回も訪れて何をしていたのだろうか?一説によると、綱吉自ら「大学」を講じ、続いて吉保がこれにならって講じ、それが終わったら猿楽(能・狂言)を鑑賞していたという。
このように、吉保の出世は彼自身の学才と綱吉への気配りが成した結果だと考えられるが、それも綱吉あってこそのものであった。実際、綱吉が宝永6年(1709年)に没した年、6月3日に嫡男・