側用人制の始まり

<概要>
天和元年(1681年)12月、老中の堀田正俊(ほったまさとし)(48)が大老に昇任すると共に、牧野成貞(まきの なりさだ)(49)が最初の側用人(そばようにん)となった。側用人とは現在でいうと秘書のような役割で、常に将軍のそばに控えて老中らに将軍の指示を伝えるのが役目だった模様。堀田正俊は前年、五代将軍に徳川綱吉(36)を推した功労者であり、牧野成貞は綱吉が幼少の頃から仕えており、館林藩主だった頃は家老として綱吉を支えてきた。

<その後の展開>
大老となった堀田正俊は、新設の役職「勝手掛老中」として内政財政を統括し、前代から悪化していた財政の建て直しのために年貢増収と支出削減に乗り出した。また、不正代官を厳しく取り締まり、農村の整備に努めるなど、積極的に政策を進めていった。しかし、維持費・補修費がかさむ将軍の御座舟・安宅丸(あたけまる)を廃棄処分したり、大奥にも節約を強制するなど、将軍・綱吉との溝は深まっていった。
一方、側用人となった牧野成貞は綱吉の忠実な側近として、職務に励んでいる。後に発令される「生類憐みの令」の徹底にも尽力した。


もうちょっと詳しく

綱吉の将軍就任に尽力した堀田正俊だったが、時の流れと共に二人はだんだん肌が合わなくなってきたらしい。特に、綱吉の日常生活にも倹約を強制して諫言することは、綱吉にとっては我慢のならないことだったかもしれない。
例をあげると、綱吉が好きな猿楽を見物しようとしたところ、雨が降り出してきた。側用人の牧野成貞は油障子を作って雨を防ごうとしたが、堀田正俊は「勅使饗応の時でも降雨の時は延期する」と言って晴れるのを待たせたという話がある。また、綱吉の生母・桂昌院(けいしょういん)も、当初は堀田を大功の人として接してきたが、彼の倹約令が大奥にも適用され、衣服も制限されはじめると、館林の頃のほうがよかったと、愚痴をこぼしたという話もある。
綱吉は「時に時鳥(ほととぎす)の香炉」というものを与えて暗に隠居を勧めたが、彼はいっこうに隠居しようとしなかった。
これら諸事情が後に起こる事件の引き金となり、さらには老中よりも自分の意のままに動く側用人を重用し、柳澤吉保のように政治の実権を握る者まで現れた一因と考えることができるだろう。

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