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藤原純友の乱

当時、瀬戸内海には海賊が横行しており、公私を問わず思いのままに船を襲っては金品を略奪しており、治安は甚だ悪かったという。それらの海賊の首領が、藤原純友ふじわらのすみとも)であった。朝廷は海賊を取り締まるために、936年(承平6年)6月に紀淑人きのよしと)を伊予守兼追捕南海道使に任じた。その頃、純友はおよそ2500人もの部下を従えていたといわれているが、一時はこれに従って朝廷に帰順していた。
海賊の横行は一時的には沈静化したが、再び姿を現しはじめ、純友も制止を聞かずに配下を率いて海に出るようになった。紀淑人はこれを朝廷に報告。939年(天慶2年)12月21日、朝廷は藤原純友の逮捕と召喚命令を摂津はじめ7ヶ国に出したのである。
しかし、純友一党はこれに従わなかった。12月26日には配下の藤原文元ふじわらのふみもと)が、摂津国須岐駅で海賊対策にあたっていた備前介の藤原子高ふじわらのさねたか)らを襲撃し、公然と朝廷に対して反旗を翻したのである。後に、この一連の戦乱は藤原純友の乱と呼ばれ、同時期に起こっていた坂東の平将門の乱と並び、朝廷を脅かした西の反乱として記録されることになる。


藤原純友について

純友は「藤原」の姓が示すように、貴族の出身である。父は大宰少弐の藤原良範ふじわらのよしのり)で、父は当時摂政であった藤原忠平ふじわらのただひら)の従兄弟である。しかし、摂関家に繋がる家柄にしては官位はそれほど高くもなく、純友自身は伊予掾であった。
純友がどういう理由で海賊化したのかは不明だが、彼は任期をすぎても都に帰らず、伊予国日振島(ひぶりしま)を根拠地として1000余艘の船を擁する海賊団の首領となった。

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)

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