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藤原純友の乱の経緯

940年(天慶3年)は、藤原純友率いる海賊団が猛威を奮った年であった。坂東では平将門が反旗を翻しており、朝廷は東西に大きな問題を抱えている状態であった。朝廷は、まず平将門を鎮めることに集中し、藤原純友はそれまで懐柔しておくという作戦をとった。2月、純友は淡路を襲撃しているが、朝廷から従五位下の位階を授かったため、一時的に海賊の横暴は抑えられた。ところが、4月になって、将門が討たれてその首が朝廷に献上されると、朝廷は一転して純友討伐の準備を始め、6月18日に純友一党の追討令を出したのである。
しかし、この頃30人もの海賊部将を従えるほどの勢力にまで成長していた純友の反乱の火の手は、とどまるところを知らなかった。8月18日、純友率いる400艘もの船団が伊予を襲撃し、次いで讃岐の国府を襲ったのである。国軍が迎撃にあたったが打ち破られ、讃岐介の藤原国風ふじわらのくにかぜ)と、警固使の坂上俊基さかのうえのとしもと)は命からがら逃亡し、国府は炎上して公私の財宝が略奪された。また備前・備後の兵船100艘ほども焼き討ちされたうえに、10月22日には、大宰府の追捕使が討たれ、11月には周防の鋳銭司(じゅせんし)が焼き討ちされた。


乱の衰退

藤原純友は、船の機動性を存分に活かして暴れまわったといわれている。上記以外にも、東は紀伊を襲い、四国をまわって太平洋岸の土佐も襲っており、まさに神出鬼没の海賊団であった。しかし、朝廷の追討態勢が整うにつれて純友軍の被害も増えるようになり、部下が離反するという事件も発生し、純友の勢力は衰退の兆を見せていた。

<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)

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