941年(天慶4年)5月19日、朝廷は藤原忠文(ふじわらのただふみ)を征西大将軍に任命し、藤原純友討伐の本格的な軍を起こし始めた。一方、猛威を奮った純友ら海賊団では、有力部将の捕縛や離反などが相次ぎ、その戦力は日に日に衰えていったという。純友は形勢挽回をはかり、5月20日に九州地方の要地・大宰府を襲撃した。この戦いで大宰府の政庁である都府楼(とふろう)は炎上したが、その後に南海追捕凶賊使の小野好古(おののよしふる:58歳)らの軍勢と博多津で激戦となった。この戦いで純友軍は大敗を喫し、ほぼ壊滅状態になったという。純友は小船で逃走したが、6月20日には根拠地の日振島で伊予警固使の橘遠保(たちばな とおやす)に討たれてその生涯を閉じた。
こうして、およそ1年半に及んだ藤原純友の乱は鎮圧されたが、この乱が朝廷に与えた影響は大きかった。同時期に発生した平将門の乱を合わせて、承平・天慶の乱と呼ばれている。
大宰府は古代には「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれており、その政庁であった壮麗な都府楼は権威の象徴であったという(現在でも都府楼の遺跡は残っているらしい)。古代の大宰府の役割は、唐や新羅に対する防衛拠点であったと考えられており、発掘調査によって文献では知りえなかった情報が発見されている。
大宰府の重要性は鎌倉時代には衰退するが、菅原道真がこの地で没したために、学問の神の地という要素が新たに加わっていた。現在でもその要素は受け継がれており、高校・大学受験の時期になると多くの学生が祈願をかけている。
<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・日本全史(講談社)
・新詳日本史図説(浜島書店)
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