安政3年(1856年)9月、吉田松陰(名は「矩方(のりかた)」27歳)が藩の許可を受けて叔父・玉木文之進が創設し、外叔父の久保五郎左衛門が継いでいた松下村塾の主宰者となった。
(注:松下村塾といえば吉田松陰が連想されるが、塾の創始者は玉木文之進である)
出獄した松陰は実家の杉家で生活していたが、8月から近親者らを相手に「武教全書」の講義を始めていた。「日本外史」や「経済要録」などをテキストとしながら、実践を目的とした教育を心がけていたという。
この松下村塾では多くの人材が育ち、教科書にも載る著名な人物では高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末の長州藩を主導し、明治時代に政府高官となった人物が多い。
松下村塾で培われた思想は、幕末日本を動かし、明治維新を遂げるために大きな役割を果たした、と言っても過言ではないだろう。
松陰は松下村塾の教材として「いろは文庫」を用いることがあったという。「いろは文庫」は為永春水(ためなが しゅんすい)が書いた、仮名手本忠臣蔵を題材とした絵草子である。塾生の高杉晋作も妻に「いろは文庫」(注:これは現存している)を贈っていた。
さらに、第二次長州征討の時は、宍戸備後助(ししど びんごのすけ)が「長防臣民合議書」と題した小冊子を長州藩全域と隣の広島藩に頒布した。この書は、庶民に対して長州藩が幕府軍と戦うことの正統性を説いたものであるが、この中で赤穂浪士の討ち入りが例として挙がっているのである。
赤穂浪士の討ち入りは、長州征討の頃から見ると150年近くも前のこと。年数だけで考えれば、現代から見た幕末の動乱と同じである。この一件は、歴史とは意外なところにもつながりがあり、改めてその深さを考えさせられるものであることを示す一例と言えるだろう。