生類憐みの令

<概要>

貞享2年(1685年)、史上希にみる奇妙な法令・生類憐みの令が出された。この法令は年を経るごとにどんどん厳しい内容に変貌し、特に犬を大切に保護することを指示した。将軍の徳川綱吉いぬ年生まれだったことがその理由らしい。
蚊も殺してはならないという、なんとも守りがたい法令なので、違反者が多数現れて厳しい処罰が下された。江戸市中ではもちろん、あらゆる階級の人々がこの奇妙な法令に苦しめられてきたが、綱吉がこの世を去るまで生類憐みの令は徹底されることとなった。

<その後の展開>

違反者として処罰された不幸な人々を多数出したこの法令は、宝永6年(1709年)に綱吉が死んだ後、徳川家宣が六代将軍に就任してすぐに廃止された。


もうちょっと詳しく

この年の7月に出されたものの内容は

「将軍御成の道筋に犬猫が出ていても構わず」

というものだった。この時

「先にも令せし如く」

とあるため、以前にも同様の法令は出ていたらしい。
11月には

「江戸城中で食膳に鳥類・貝類・海老などを供することを禁ず」

とされた。
2年後の貞享4年正月には牛馬などに生類憐みの令が出され、2月には江戸町中に飼犬登録制が出された。4月には犬の保護令、7月には犬の殺傷が禁じられている。保護されたのは犬に限らなかった。蚊・虱・蚤・蠅を殺すことも禁じられ、鳥類魚類玉子までも食してはいけないとされた。多くの人々の反感をかったという話も納得できる。
この令は時を経るごとにひどくなり、特に「犬」は貴重に保護された。「お犬様」である。江戸に特に多いものは「火事に喧嘩に犬の糞」といわれるほど、江戸の町中には犬が溢れ

「市内各所、大八車や牛車にてしばしば犬などを毀傷するよし聞ゆ。(中略)いとひが事なれば、車夫等それぞれ罪科に処せらる」

というお触れが出たほどだったらしい。
元禄4年(1691年)2月に野犬を養育し、犬が喧嘩しているときは水をかけて引き分けにせよ、という滑稽なお触れが出されたが、好んで犬を飼う者などいなかっただろう。災いの種である。江戸に溢れる野犬を保護するために、元禄8年10月には中野村に16万坪の広大な犬小屋を造営し、10万頭もの犬を収容したと言われている。さらに医師二人が派遣されて負傷犬・病気犬の治療に当らせた。これだけの規模で犬を飼うのに年間10万両もの費用がかかり、この費用は江戸の町人らと諸大名に負担させていたのである。

不幸な違反者達

このお触れの違反者第一号は、貞享4年正月に現れた。江戸城内の台所の井戸に猫が落ちて死んだ責任をとらされて、台所頭の天野正勝が八丈島に流されたのである。他の処罰者をいくつか挙げると
同年4月
・病馬を荒地に遺棄した者10人が遠流。
・保泉市右衛門の下僕が犬を斬り、八丈島に流罪。市右衛門は俸禄召し上げ。
同年6月
・中奥小姓・秋田季久の家人二人が吹き矢で燕を射たため、一人は死罪、一人は遠流。

ちなみに、このお触れの取り締まりは江戸はじめ、幕府の直轄地で厳しく徹底されたが、諸藩までには及ばなかったらしい。

生類憐みの令の目的は何なのか?

この気違い沙汰の目的は綱吉の世継ぎ誕生を祈ったことにあるらしい。単に綱吉が無類の犬好きだったためではないようだ。
綱吉は兄である前将軍・家綱に嗣子がなかったため、将軍に就任することができた。しかし、その綱吉もまた嗣子には恵まれなかったのである。綱吉には二人の子がいた。延宝5年(1677年・綱吉32歳)に側室・お伝の方が長女・鶴姫を出産。延宝7年には再びお伝の方が長男・徳松を出産した。しかし、徳松は天和3年(1683年)閏5月にこの世を去る。享年5歳。以後、男子に恵まれることはなかった。
この事態に焦りを覚えたのは、綱吉本人よりもその母・桂昌院であったようだ。
桂昌院は元は京都の町人の娘(名前はお玉)で、大奥で仕えていたところ、三代将軍・家光の手がつき側室に昇格。さらに綱吉を産んだことで将軍生母となった。町人の娘が将軍生母に。江戸時代版、シンデレラストーリーといったところだろうか。この桂昌院、かなり信心深い性格だったらしい。彼女がまだ幼児だったころ、京都仁和寺参詣の折に、境内で一人の僧に呼び止められ

「おぬしは貴相じゃ、ゆくゆくは尊い身分になるに違いない」

と言われたらしい。その後、家光の側室となった彼女はこの僧を探したところ、江戸の知足院の住持となっていた亮賢りょうけんがその僧だった。彼女が妊娠した時、男児を賜るように亮賢に祈祷させ、やがて綱吉が誕生し将軍に就任すると、護国寺を建立してこの亮賢を住持としたのである。さらに、亮賢の弟子の隆光りゅうこうに深く帰依しはじめた。今度は隆光のために護寺院を建立したほどである。このような過程を経て、隆光は桂昌院の心をしっかりと掴み、絶大な信頼を得たのである。
綱吉の息子・徳松が幼くして亡くなり、焦った彼女は世継ぎの誕生を隆光に祈らせたところ、隆光は

「お世継ぎが誕生されないのは、前世で殺生なさった報いでございます。今後は殺生を禁じ、特に将軍様は丙犬のお生まれですから、犬を大切になさるとよいでしょう。」

という内容のことを勧めたらしい。信心深い桂昌院はこの言葉を信じて、綱吉にそうするように説得したと思われる。孝行心に篤い綱吉はどう思ったのだろうか?綱吉がどう考えたのかはわからないが、母親の必死の説得に動かされてしまったのだろう。
こうして、生類憐れみの令が施行されることになるのであった。


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