守護・地頭の設置

概要

文治元年(1185年)11月29日。朝廷は、源頼朝(39歳)に対して、国ごとに守護を、荘園・国衙領ごとに地頭を置くことを勅許した。後白河法皇(59歳)は、先月源義経(27歳)に頼朝追討の院宣を出したばかりだが、義経にそれだけの力がないことがわかると、一転して今度は頼朝に対して義経追討の院宣を下したのである。頼朝らはこの機会を利用し、義経を探し出すことを理由として、全国にその支配権を拡大するように要求してきたのである。政治的失策をやってしまった後白河法皇にこれを拒否する力はなかった。

国ごとに設置される守護は、東国御家人の有力者の中から選ばれ(地頭の中から有力な者が選ばれる、ともいう)、その任務は管内の御家人の統制と治安維持であり、戦時には御家人を率いて参陣することである。具体的には大犯三ヶ条だいぼんさんかじょう)と呼ばれた、大番役(※1)の催促、謀叛人・殺害人の逮捕であった。
荘園・国衙領ごとに置かれる地頭も、御家人が任命され、土地の管理、年貢の徴収、治安維持などを任務とした。
問題になったのは地頭であった。これまで貴族や寺社の私有地であった荘園に、頼朝から任命された地頭が介入するうえに、さらに地頭には、管理する土地1反(約10a)について5升(約9?)の兵粮米を徴集する権利が認めらていたため、彼らの収入に直接打撃を与えることになるのである。このため、地頭の設置については有力貴族や寺社などから大反対された。その結果、地頭については滅んだ平家の旧領(平家没官領へいけも(ぼ)っかんりょう)や謀叛人の土地だけに設置されることになった。

守護・地頭の設置が認められたことにより、完全ではないがほぼ全国に頼朝らの武家政権の支配力がおよぶことになった。鎌倉幕府の基礎が整い、長い目で見れば、本格的に武士の歴史が始まろうとしていた。

※1「大番役」
以前から慣例となっていたのが「京都大番役」で、武士達は順番に交代で上洛し、御所の警護などの任務についていた。この期間は3年間という長期に及ぶうえに、必要な経費はほぼ全て自費で賄わねばならなかったので、経済的にも大きな負担になっていた。この大番役を6ヶ月に短縮するように朝廷に認めさせたのが、源頼朝であった。やがて、3ヶ月に短縮されることになる。
新たに設けられたのが「鎌倉番役」で、鎌倉の警備がその仕事である。これには北陸を除く遠江以東15ヶ国の東国御家人が勤めた。


もうちょっと詳しく

守護と地頭の設置は、武士の力を飛躍させた大きな要因の一つといえるだろう。頼朝は日本国惣追捕使・日本国惣地頭に任命された。義経問題で、頼朝追討の院宣を出してしまった後白河法皇は、あれは義経に強要されて、院の近臣が勝手に出したものだと、苦しい弁解をしたが、その代償は大きかったようだ。
吾妻鏡によると、守護と地頭を設置するように進言したのは、頼朝の側近である大江広元おおえのひろもと:38歳)と、されている。彼は
「地方で反乱が起こるたびに(鎌倉から)御家人を派遣していては、武士の負担も国の負担も大きいです。この機会に、幕府の支配力を全国に及ぼすために、守護・地頭を置くべきです。」
と進言している。
また、九条兼実の日記「玉葉」では、使者として上洛してきた北条時政(48歳)を「北条丸」と蔑んで記し、地頭の設置については「凡そ言語の及ぶ所に非ず」(言語道断のことである)と憤慨している。

なお、1反につき5升の地頭の権利については、翌年に廃止されている。

守護と地頭の起源

守護と地頭の厳密な起源については、まだ研究途上にある。まず、守護という名称であるが、これは後になってつけられたものだと考える説がある。当初は「惣追捕使」あるいは「国地頭」という名称であったそうだ。この時点で勅許されたのは、国ごとに設置する国地頭であり、翌年に兵粮米徴集権と共に廃され、後に設置された守護に権限が移された、という説も有力なようだ。
地頭についても、荘園・国衙領ごとに置かれる地頭を荘郷(しょうごう)地頭といい、実際には勅許前から置かれていたとする説も有力である。
いずれにしても、守護と地頭の存在が鎌倉幕府の基礎となり、後の武士社会の雛型となったことは事実であるので、今後の研究の成果が楽しみである。

公武二元的支配

守護と地頭の設置は、武家政権の支配力を強化する要因にはなったが、従来の荘園制を否定するものではなかった。むしろ、幕府は公家や有力寺社の経済的な基盤である荘園の存在を認め、地頭の横暴を抑制しているのである。もちろん、御家人である地頭は幕府の基礎となる存在であるので、彼らを保護してもいる。つまり、幕府に属する御家人が地頭となって、所有者である貴族・寺社・国司の荘園・国衙を管理する、という二元的な土地支配構造が成立したのである。


幕府と荘園領主による地頭の二元的支配の図

地頭職は鎌倉殿(幕府・将軍)に任命された御家人が就任し、土地を管理する。土地を管理される荘園領主や国司には地頭の解任権はない。また、地頭は御家人であるため、鎌倉殿には軍役・番役の責務を果たさねばならないが、管理している土地は荘園領主や国司の物なので、年貢や夫役などは彼らに納めなければならない。つまり、土地を管理する地頭は、土地所有者と鎌倉殿から二元的な支配を受けていることになる。 なお、関東進止所領とは、鎌倉幕府が自由に地頭を補任できる権利を持った領地のことを指す。

<参考>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
・日本史史料集(駿台文庫)

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