<概要>
天和(てんな)3年(1683年)7月25日、幕府は武家諸法度のほぼ全条項を改訂した。幕府の政治は武断主義から文治主義へと転換されてきたが、今回の改訂でも家康以来の第一条
「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」が
「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」と改訂されるなど、儒学(特に朱子学)を重んじる徳川綱吉らしさがよく出ていると思われる。
また、1663年の諸子法度で制定された「殉死の禁」を再確認する他、「末期養子の禁」をさらに緩和している。
今回の改訂は天和3年に実施されたことから、「天和令」と呼ばれいる。
<その後の展開>
「忠孝」を重んじる朱子学は、幕藩体制を維持するにはぴったりの学問である。
19年後、「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の討ち入りが起こった。
もうちょっと詳しく
徳川綱吉というと、「犬公方」のあだ名の由来となった悪令「生類憐れみの令」で有名だが、決して暗愚な将軍だったわけではなく、学問を好む人物だった。彼自身、儒学を修めているし、将軍宣下の翌月には朱子学者(京学派)の林信篤(はやし のぶあつ 「林鳳岡(ほうこう)」とも)を召し、経書の討論をしている。また、林家の私塾を湯島聖堂に移し、聖堂学問所として林信篤を大学頭に任命。旗本・御家人らに講義を受けさせている。朱子学の普及・発展に力を注いでいる点を忘れてはならない。
「末期養子の禁」とは、大名や旗本の当主が跡継ぎのいないまま没した後に、幕府に養子の申請を出しても認めない、という法令である。従来の幕府のやり方では、跡継ぎがいない大名が没した場合は、主家断絶・お家取り潰し、という厳しい処分が下されていたが、これらの処分によって浪人が増加し、特に江戸では再仕官の口を見つけるために浪人が集中した。由井正雪らの慶安の変以後、浪人増加に歯止めをかけるため、当主が17歳〜50歳までの間に没した場合は末期養子を認めるように緩和されたのである。1663年の諸子法度での緩和に続き、今回の天和令では、これまで認められなかった50歳以上で没した場合も吟味の上認める、と緩和され
た。