文久2年(1862年)4月23日。京都伏見の船宿「寺田屋」で、薩摩藩士同士が斬り合いに及ぶという事件が発生した。事件のあらましは以下の通り。
有馬新七(ありま しんしち)ら尊攘激派の薩摩藩士らが、藩兵1000人余りを率いて上洛した薩摩藩主・島津茂久(忠義)(しまづ もちひさ(ただよし))の父・島津久光(しまづ ひさみつ:46歳)に時を合わせて京都所司代などを襲い、討幕の兵を挙げようと計画していた。しかし、久光の目的は公武合体を進めて幕政における自分の地位を高めることにあり、この時点で討幕は考えていなかったようだ。挙兵計画を知った久光は、藩士らに寺田屋に集結した過激派の説得を命じて派遣した。しかし、過激派は説得に応じようとしなかったため、過激派と説得の使者団の間で斬り合いとなった。
この事件で、有馬ら過激派の藩士は斬り死にし、生き残った者も後に切腹となった。説得に向かった使者団にも1名の死者が出ており、数名が負傷している。
薩摩藩における討幕運動は、この事件でひとまず抑えられた。藩主の父・島津久光は勅使を護衛するという形で正統性を獲得し、江戸に向かって幕政改革を促すことになる。
島津久光が藩主となった息子の後見人となった頃、薩摩藩でも攘夷論が盛んになっていたという。なかでも「誠忠組(せいちゅうぐみ)」という集団は、脱藩して倒幕の兵を挙げるという思想を持っていた。この誠忠組の中心人物が有馬新七であった。他には大久保利通(おおくぼ としみち)や岩下方平(いわした まさひら)が加わっている。久光は誠忠組の暴走を止めるために、直筆の諭達を出した。それには、誠忠組はじめ多くの薩摩藩士が尊敬している先君・島津斉彬の遺志を継承して、公武合体による幕政改革を行うべきだ、と説いていたらしい。藩主直筆の諭達は異例のものであったが、討幕派の爆発を食い止めるには至らなかった。