1868年(慶応4年)1月3日。旧幕府勢力の一掃を図る薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍と、これに対抗する会津藩・桑名藩を主力とする旧幕府軍が、京都南方の鳥羽と伏見でついに武力衝突を起こした。幕府は大政奉還を行い、徳川家の政治生命を保とうと画策していたが、薩摩藩・長州藩や公家の岩倉具視(44歳)らは、新政府の高官から徳川慶喜を除外するばかりか、官位も領地も没収すると宣言したのである(小御所会議)。両者の対立は激しくなり、ついに武力衝突に及んだ。
旧幕府軍は兵力で新政府軍に勝っていたが、その装備は旧式のものがほとんどであり、新型の洋式銃で武装した新政府軍に思わぬ苦戦を強いられた。さらに翌日4日に、官軍であることを示す「錦の御旗」が新政府軍に掲げられると、旧幕府軍のほとんどが戦意を喪失。大坂城に構えていた徳川慶喜は「逆賊」の汚名を着せられることを恐れ、多くの兵士を置き去りにし、わずかの近臣のみを連れて船で江戸に脱出。副長の土方歳三(ひじかた としぞう:34歳)率いる新選組も奮戦したが力及ばず敗走した。この戦いは「鳥羽・伏見の戦い」と呼ばれ、新政府軍の勝利に終わった。
旧幕府勢力はこの後も各地で抵抗を続け、内戦状態に突入することになる。鳥羽・伏見の戦いから翌年の函館戦争までの一連の争乱は戊辰戦争と呼ばれている。
会津藩、桑名藩を主力とする兵力およそ15000の旧幕府軍は、2日朝に大坂城を出発して淀城に入り、二手に分かれて主力部隊は3日未明に伏見奉行所を本営とし、別働隊は鳥羽へ向かった。一方、薩摩藩、長州藩を主力とし、土佐藩、広島藩の援軍を含めた新政府軍の兵力はおよそ5000の兵力で鳥羽・伏見方面を守っていた。
1月3日。この日は鳥羽の城南宮から淀城方面が見わたせるほどの快晴であったという。この日の午後4時頃、鳥羽の城南宮に布陣していた薩摩藩と旧幕府軍別働隊で押し問答が始まった。痺れを切らした旧幕府軍が小枝橋から鴨川を渡ろうとしたところ、薩摩藩が発砲したために旧幕府軍が応戦し、戦いの火蓋が切って落とされた。
朝から睨み合いが続いていた伏見方面でも、鳥羽方面から砲声が轟いたたのをきっかけに、御香宮に陣取っていた大山弥助(後の大山巌:27歳)率いる薩摩藩砲兵陣が、目と鼻の先の伏見奉行所を砲撃したことで戦闘が始まった。伏見奉行所に陣取っていた土方歳三率いる新選組、
久保田備中守率いる傳習隊などは、新政府軍を切り崩して墨染まで撃退したが、4日に軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王が官軍であることを示す「錦の御旗」を掲げて陣頭に立ったため、旧幕府軍はたちまち戦意を喪失して撤退し、この戦いは新政府軍の勝利に終わった。
この戦いの後、副長として指揮を執った土方歳三は
「銃や大砲に、剣と槍で立ち向かうことは、もはや無意味となった。」
という内容のことを言ったという。新選組は剣術に覚えのある者達がほとんどであったが、剣が時代遅れの兵器になっていることを実感した台詞と言えるだろう。ここからも、新選組が時代の流れに取り残され、そして逆の方向へ進もうとした側面がうかがえる。
局長の近藤勇(35歳)は戦前に負傷していたため、鳥羽・伏見の戦いには参戦していなかったが、大坂城にて
「おめおめ敵に降伏するようでは末代までの恥辱である。たとえ二三百の兵でも、城に立てこもって戦い抜き、割腹して果ててみせる。」
と、徹底抗戦を主張したと、「新選組日誌」には記されているらしい。
しかし、最終的には1月10日に、旧幕府軍の生き残りと共に新選組も軍艦で江戸に退却することになった。