1269年(文永5年)に訪れた蒙古の使者は、鎌倉幕府と朝廷をおおきく動揺させました。幕府の当時の執権は7代目の北条政村(ほうじょう まさむら:64歳)でした。政村は高齢だったので、やがて来る未曾有の国難に備えて、政村の代わりに連署だった北条時宗(ほうじょう ときむね:18歳)が第8代執権に就任しました。3月5日のことです。
国難に備えて若いリーダーを立てる、という意味もありましたが、もともと政村は時宗が成人するまでの「つなぎ」として執権の地位にいました。時宗の父・北条時頼(ほうじょう ときより)が、病のために執権を退く時、嫡男の時宗は幼子だったため、時宗が成人するまでは、北条一門の人が一時的に執権に就いていたわけです。蒙古からの使者は、約束通りに時宗を執権に就任させるいい機会だったのかもしれません。
一般に、鎌倉幕府の政治体制は、時宗の頃から得宗家(※とくそうけ:北条義時から始まる、北条一門の本家のこと。義時の法名が「徳宗」だったことに由来)の専制政治に変わっていったといわれております。時頼が執権だった頃、得宗家は既に北条一門衆と有力御家人をその統制下に置いていました。時頼は病のために引退して出家しましたが、病が癒えても得宗家の事実上の当主として、幕政の実権を握っていたそうです。そんな時に、時宗が執権に就任しました。元寇に備えなければならないこともあって、幕政の重要事項は得宗家の私邸で開かれる秘密会議で取り決められ、評定衆や引付衆といった重職もほとんどが北条一門で占められるようになりました。さらに、得宗家の独裁色が強まるにつれ、得宗家の家臣である御内人(みうちびと)が力を握るようになりました。
こうして、鎌倉幕府の政治体制は、源頼朝が将軍だった将軍独裁政治から、合議制の執権政治を経て、最終形態である北条得宗家の専制政治へと変貌していくのでした。
<参考書>
・新日本史B(桐原書店)
・新詳日本史図説(浜島書店)
・日本全史(講談社)
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