徳川綱吉 五代将軍就任

<概要>
延宝8年(1680年)5月5日、江戸幕府四代将軍・徳川家綱は危篤状態にあった。さらに困ったことに、家綱には後継者となる嫡男がいなかったのである。そのため、次の将軍を誰にするかでかなり揉めた。この問題について、当時の大老・酒井忠清以下、老中の面々に御三家の当主が加わって話し合いが行われた。
「下馬将軍」と呼ばれるほどの権勢を誇っていた大老・酒井忠清は、鎌倉幕府の故事を持ち出して有栖川宮幸仁親王(ありすがわのみやゆきひとしんのう)を将軍として迎えようと提案。権勢強大な大老の前に、一同これに賛同したという。しかし、ただ一人、老中の堀田正俊(47)はこれに反対し、家綱の弟で当時は館林藩主だった徳川綱吉を次期将軍に推薦したのである。これをきっかけに次期将軍は綱吉となった。
5月8日、家綱死去。同年8月23日、綱吉に将軍宣下が行われ、五代将軍・徳川綱吉が誕生した。時に綱吉、35歳。

<その後の展開>
綱吉を将軍に推した堀田正俊は論功行賞で5万石を加増され、翌年12月には大老に就任。初期の綱吉政治を推し進め、その政治は「天和の治」と呼ばれている。
一方、大老の酒井忠清はこの年の12月に大老職を解任され、翌年5月に病死した(自殺とも言われている)。


もうちょっと詳しく

当主の座は長男が継ぐ、というのが一般的であり、何らかの理由で長男が跡継ぎとなれない場合は、次男・三男・・・と継承権が移っていくのが基本である。しかし、四代将軍・家綱には男子が一人もいなかったので、揉め事になったのである。当時の将軍家の系図は以下の通り。
当時の徳川本家系図 当時の徳川本家の系図。数字は将軍就任順、青字はこの時点での故人

三代将軍・家光には5人の男子がいたが、三男・亀松と五男・鶴松は夭折。四代将軍・家綱は家光の長男で、綱重は次男、綱吉は四男であった。順番から考えると、家綱が嗣子無くしてこの世を去った場合、先に綱重に将軍継承の順番が回ってくるが、綱重はこの年の2年前の9月15日に病死している。

酒井の思惑・堀田の思惑

5月5日の会議では、有栖川宮幸仁親王を迎えようと主張する酒井忠清と、綱吉を推す堀田正俊の意見の対立となった。一時は酒井の意見に傾いた出席者も、堀田の「血縁が最も近い館林公を立てるべき」という論理に傾き始め、御三家の一人・水戸光圀が堀田に賛成したのをきっかけに、堀田案が優勢になった。その後、酒井が巻き返して議論は引き分けに終わったとも言われているが、結果は堀田案が通っている。それでは、酒井と堀田の意見の相違は何処に由来しているのだろうか?
酒井の鎌倉幕府を真似て、京都から皇族将軍を迎えるという案は、鎌倉幕府の北条氏のように、執権として政治の実権を握ろうとしたため、という説もあるが、この時妊娠していた家綱の側室の出産を待ち、男子なら後に将軍に据え、女子なら家綱の姉が尾張徳川家に嫁いでいたため、その子の綱義か義行に譲らせる。そのための繋ぎの宮将軍を迎えるという説が有力であるが、定かではない。
一方の堀田正俊は、家光や家光の乳母・春日局との関係が濃かった。正俊の父・正盛は家光の老中であり、家光の死に殉じている。その父の母親は春日局の義理の娘(夫・稲葉正成の娘)であった。また、正俊自身の正室も春日局の曾孫なのである。正俊にとっては、家光の家系の将軍を絶やしたくなかった、という思いがあったのかもしれない。

遺書の謎

家綱の遺書は死の3日前、つまり会議が行われた5月5日に書かれたといわれており、この遺書によって、綱吉が次期将軍に就任することが決まった。この遺書は堀田家に残されているそうだが、その文面は「そのようにしろ」という、ことだけしか書いていないという。いったいどのようにしろ、というのか?綱吉を次期将軍にとは明言されていないという。また、連署されている老中は堀田のみであり、他の老中は署名に加わっていないらしい。
もしこれが事実なら、この遺書と綱吉将軍就任は堀田が独自に事を進めて作り上げた、と考えることができる。綱吉の将軍就任は、まだまだ謎が多いようである。

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