日米修好通商条約

<概要>

下田の駐日総領事・ハリス(日米修好通商条約締結時:55歳)は、清で起きたアロー戦争の経緯を説明し、イギリスの脅威を強調して、幕府に通商条約の締結を迫っていた。時の老中首座・堀田正睦(日米修好通商条約締結時:49歳)は諸大名・幕臣に意見を求めたが、強硬に反対する藩もあった。1858年2月、堀田は自ら京都に上洛し、条約締結について朝廷の許可(「勅許(ちょっきょ)」という)を得ようとしたが、却下されてしまった。しかし、この情勢はある人物の登場で一気に変化する。
4月に大老に就任した彦根藩主・井伊直弼いい なおすけ)(44歳)は、6月19日、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。この条約の主な内容は以下の通り。
1.下田・箱館に加え、神奈川・長崎・新潟・兵庫の4港と、江戸・大坂の2市を開くこと。
2.自由貿易を認め、開港場に居留地を設けること。
3.居留地内では領事裁判権(治外法権)を認めること。
4.関税は両国が協定して決める協定関税とすること(関税自主権の放棄)。
特に3と4については日米和親条約よりもさらに踏み込んだ不平等条約であり、明治時代になっても大きな問題を残したのである。さらに幕府は、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結び、これらは「安政五カ国条約」と呼ばれている。

<その後の展開>

大老の井伊直弼は独断専行型の人物であり、これまでのような幕府独裁型の政治体制の復活を目指し、阿部や堀田とは正反対の方針で幕政を進めていった。また、そのやり方も幕府の威信を以って反対派を力で押さえつけるものだった。徳川家の威信が強かった昔ならともかく、既に支配体制が揺らいでいる幕末においては、多くの反発を招いたのは言うまでもない。


もうちょっと詳しく

日米修好通商条約は、全14条からなる。その条文の一部を見てみよう。出典は、日米和親条約と同様に「幕末外交関係文書」より。

第一条
向後(きょうこう)日本大君と、亜墨利加合衆国と、世々親睦なるべし。・・・。

第三条
下田・箱館港の外、次にいふ所の場所を、左之期限より開くへし。
神奈川:西洋紀元1859年7月4日
長崎:同断
新潟:1860年1月1日
兵庫:1863年1月1日
・・・神奈川港を開く後六箇月にして、下田港は鎖すへし。・・・
江戸:1862年1月1日
大坂:1863年1月1日
右二箇所は、亜墨利加人、唯商売を為す間にのみ、逗留する事を得へし。・・・双方の国人品物を売買する事、総て障りなく、其の払方等に付ては日本役人これに立合はす。・・・
諸日本人、亜墨利加人より得たる品を売買し、或は所持する、倶に妨なし。

第四条
総て国地に輸入・輸出の品々、別冊の通り、日本役所へ、運上を納むへし。・・・

第五条
外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て、通用すへし(金ハ金、銀ハ銀と、量目を以て、比較するをいふ)

第六条
日本人に対し、法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すへし。亜墨利加人へ対し、法を犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本の法度を以て罰すへし。・・

まず第一条で「日本大君と、亜墨利加合衆国と」とある。「日本大君」とは徳川将軍のこと(当時は13代・徳川家定)。幕藩体制というのは、世界全体から見ても珍しい政治体制だろう。政権を担当しているのは、武家の棟梁である征夷大将軍なのだが、欧米で「将軍(general)」となると一軍を率いる軍人であり、とても国家の外交権を握る立場ではない。かといって、征夷大将軍は「王」や「皇帝」とも異なる。征夷大将軍を任命するのは天皇なので(形式上の話だが)、国王とは異質のものである。そのため、「大君」というあまり耳にしない表現を使っている。この、微妙な関係が幕末動乱の一因となっている。
第三条は、新たに開港する港の開港期限と、江戸・大坂の開市期限を記したものだが、日付は全部西暦である。また、実際の開港日も延期されている。また、この条項の後半では、取引に役人が立ち会う必要はないとしており、これがアメリカが強調した「自由貿易」をさしている。
第四条の「別冊」とは貿易章程のことで、関税についての取り決めがなされている。「運上」とは関税のことである。関税は、その国で自由に決めることができるのが普通であるが、この条約では両国の話し合いで税率を決めるとされており(「関税自主権がない」)、不平等条項の一つである。
第五条は金銀交換についての取り決めであるが、当時の国際的な金銀比価は金:銀=1:15という割合だったが、日本では金:銀=1:5であった。そのため、欧米列強は日本で多量に銀を金と交換したため、多量の金が日本から流出してしまった。その額はおよそ10万両にもなるという。
第六条が「治外法権(領事裁判権)を認める」という不平等条項である。普通は、日本国内で起こった犯罪であるなら、犯人がどこの国の人であろうと日本の法律で裁くことができる。しかし、この条約ではそれができない。例えば、アメリカ人が日本人を殺傷したとしても、幕府の役人が出てきて犯人のアメリカ人を捕らえて裁くことができないのである。

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