1858年(安政5年)8月8日。孝明天皇(28歳)より、水戸藩に勅諚が下されるという前代未聞の事件が起こった。幕府を介せず、直接水戸藩に勅諚が下されるというのは、きわめて異例の事態であった。
勅諚は水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門にもたらされ、すぐに江戸藩邸にもたらされた。幕府に伝達されたのは2日後である。その内容は、日米修好通商条約締結に対する批判と、水戸家、尾張家に対する処罰への批判、そして、国をあげて攘夷を行うように要請したものであった。
この政治的勅諚は「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれ、大老となった井伊直弼(44歳)はじめ、幕府首脳部に強い危機感をもたらし、安政の大獄の引き金になったと言われている。
元々、孝明天皇は外国人の入国を病的なほどに嫌い、そういう意味では徹底した攘夷家であった。日米修好通商条約締結を知ると、激怒すると同時に譲位したいと嘆いていたという。その天皇を動かしたのは、薩摩藩の西郷隆盛(32歳)や水戸藩志士、攘夷派公卿などであった。彼らは、井伊直弼の免職、徳川斉昭(59歳)の処分解除、攘夷決行を呼びかけるように工作を行ったのである。
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